東大阪市横沼3丁目にある横沼公園の2本の楷の木がいつも優しく子供たちを見守っています。
この楷の木には悲しい物語がありました。
カイノキ(楷樹、学名: Pistacia chinensis)は、ウルシ科カイノキ属の落葉高木。同じウルシ科のピスタチオとは同属で近縁。
中国では、黃連木とも呼ばれる。
別名のクシノキは、山東省曲阜にある孔子の墓所「孔林」に弟子の子貢が植えたこの木が代々植え継がれていることに由来する。
また、各地の孔子廟にも植えられている。このように孔子と縁が深く、科挙の進士に合格したものに楷の笏を送ったことから、学問の聖木とされる。
横沼3丁目にお住いの故木村立江さんが、岡山から苗気を取り寄せ移植されました。
そのころ公園はとても汚れていました。
木村さんは毎日、早朝からこの公園の掃除をしておられました。
5年前の11月のある朝、掃除を終えて府道を横切ろうとした木村さんは、自動車にはねられ即死されました。
88歳でした。
その後皆の努力でこの公園はきれいになってきました。
美しい公園にするため皆で努力しましょう。
ごみは持ち帰りましよう。
平成20年12月
横沼公園愛護会
東大阪文化懇話会
今では2本の楷の木も大きくなり、よいこたちを毎日見守っています。
楷の木は閑谷学校のものが有名です。
世界最古の庶民のための公立学校!閑谷学校(しずたにがっこう)
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すぐ近くの東大阪上下水道局配水管理センター菱屋西配水場には大きなフェニックスがあります。
水道局に電話して樹齢何年くらいかと聞きましたが、わからないとの返事。
対外これくらいの樹齢の木になるといわれなどとともに樹齢も記した立札が見られるものですが、この木は忘れ去られているようです。
古代から大和川の本流としてその水運は利用されてきた。
当時は長瀬川という名称ではなく、大和川であった。
しかし大和川は非常な暴れ川でもあった。
大和川は流域面積のうち保水能力に富んだ山地の占める割合が大きく、降った雨が蓄積されるのだが、梅雨や台風の際には保水能力を超えることもあり、また、奈良盆地から大阪平野(河内平野)に注ぎだす柏原口が狭く漏斗の役割を果たし、紀州山地や奈良盆地で蓄えられた多量の水を吐き出すために、急流となり、大和川の通常の流れである蛇行しながら北上する河道を通る際に溢れ出し水害となるのである。
また河川の勾配が大阪平野に入ると緩いために流送土砂が堆積して天井川となり、洪水の被害をさらに甚大なものとしていた。
しかし、それでも水害対策としては万全ではなかったため、1657年頃、河内の百姓が「大和川の流れを九十度転換すること」を考案して江戸幕府に直訴したが、多くの資金の要ることであったため幕府も容易には応じず、約50年にわたって付替の運動が展開された。
その運動の中心人物となったのが今米村(現在の東大阪市)の庄屋・中甚兵衛である。
幕府はその熱意と計画内容が妥当であると判断し、新川の付替に動いた。
しかし付け替え予定の地域に住む百姓たちの間から、村が分断されたり、田畑が川底になり生活ができなくなるなどといった理由により、強硬な反対が起こった。
そのため幕府は付替を行わず、水害対策のために大規模な改修工事を行ったが水害は治まらず、1703年10月に幕府は大和川水路修治の令を発して1704年2月に付替工事が始まった。
3年計画の工事は、作業に協力した近隣の庄屋の指揮のもと動員された多くの百姓らと、財政的に支援した大阪の多くの商人の働きによってわずか8ヶ月足らずで完成し、同年10月13日に付替地点の古い堤防を切り崩して水の流れる方向を変えた。
その結果、大和川は大阪平野を西流して大阪市と堺市の境で大阪湾に注ぐようになった。
宝永元年(1704)の付け替え工事により現在の長瀬川には遊歩道が設けられ、市民の憩いの場となっています。
近くの幼稚園の壁面を飾るかわいい絵。
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