城好きおじさん達のきままな散策記、あまり一般的でない奈良を紹介できるのではと考える。
多聞城跡、般若寺、奈良豆比古神社は別記事とさせていただく。
先ず最初の訪問地は奈良県庁屋上。
県庁屋上広場からは、奈良盆地の景観が一望のもとに眺められる。
眺めは最高。
奈良は高層建築物がないので360度、はるか遠くまで見渡すことができます。
画像は興福寺五重塔。
東側は若草山。
その隣の春日山、東大寺の南大門・大仏殿を望めます!
西側には無料の望遠鏡が置かれていて、位置を合わせると平城宮跡の第一大極殿(だいごくでん)がどどーん!
位置を合わせるのが難しいが、見つけた時の感動はひとしお!
「隠れた眺望スポット」だ。
ただ残念なのは、最上階の職員互助会の経営で営業されていた食堂が、不採算のため営業終了となったこと。
県によると、今後は新たなな事業者を決定し、客席を若草山などが見える東側に移して、観光客も利用しやすいメニュー設定のレストランにしたい考えのようだ。
大学の略称は奈良女(ならじょ)、NWU。
国立の女子大学は本学とお茶の水女子大学の2校だけであり、女子大学の双璧として長年にわたり多くの人材を輩出してきている。
正門は重要文化財。
守衛室は、1909年(明治42年)12月に竣工し、木造平屋建て、十字形平面の鉄板葺。
屋根の棟飾りや窓廻りを本館と類似した意匠でまとめています。
旧本館とともに1994年(平成6年)12月に国の重要文化財に指定された。
旧本館である記念館(重要文化財)
奈良奉行所は、今の奈良女子大のところにあり、江戸幕府の設置した遠国奉行のひとつ。
奈良町中の行政・訴訟、大和国の寺社の支配、大和国の訴訟の一部を職掌としていました。
約29,000平方メートルの敷地があり、遠山金さんのいた江戸北町奉行所の3倍以上の大きさ。
奉行所として日本一の規模。
堀で囲まれ、京都の二条城と同じ規模のまさにお城と言えます。
有事の際には、上方から江戸までの繋ぎの城の機能を持っていました。
幕末の名奉行川路聖莫(かわじとしあきら)が、弘化3年(1846)からあしかけ6年間善政をひいたことで有名。
消えた川と北花橋、永代橋
平成11年の夏、きたまちは、時ならぬ豪雨で、まさに道路が川になり、あちこちで浸水被害が発生しました。
今はふたをされて、道路になっていますが、地下を流れている吉城川にむかって水が集中したことが原因です。
奈良公園から流れてくる吉城川と中御門川が、川久保町で合流し、佐保川に向かっているのですが、モータリゼーションの中で、地下河川になってしまいました。
いまは、押小路町のところの北花橋の親柱、女子大の北東の角に永代橋の石碑が、かつて、蛍が飛んでいたのどかな川があったことの証拠として残っています。
法蓮格子の町屋。
法蓮という地名の付く丸太格子は、奈良近郊独特のもの。
奈良の格子は、今井町・郡山も含め、京都と異なり、古い型の太い台格子(建具化されず、建物に固定されたもの)が多く残っているのが特色。
中でも、この法蓮格子は、町家型農家の法蓮町のほとんどがこの型であったため、地名を冠せられ、独特の素朴な姿を残している。
杉や桧を半割にし、門(かど)に面する縁側の桁と円葛(えんかずら)に固定した構造をとる。
縁の内側には障子が入るが、格子のすぐ裏には、竹簾を吊し、視界を調整する。
山田熊夫氏の奈良町風土記によると、江戸時代には、各町に鹿を追い込み(当時の町境には柵があった)そこで角を切るならわしとなっていたので、鹿にきずをつけないように工夫されたということから鹿格子とも呼ばれたという。
北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんこ/きたやまじゅうはちけんと/きたやまじゅうはっけんこ)は鎌倉時代に奈良につくられたハンセン病などの重病者を保護・救済した福祉施設。
1921年3月3日、国の史跡に指定された。
寛元元年(1243年)、西大寺の忍性によってつくられた。
当初は般若寺の北東にあったが、永禄10年(1567年)に戦災(東大寺大仏殿の戦い)を受けて焼け、寛文年間(1661年から1672年)に現在地に移った。
元禄6年(1693年)に修築された。
全長約38メートル・幅約4メートルの東西に長い棟割長屋で、内部は18室に区切られ、さらに東西に仏間がある。
奈良少年刑務所(奈良市般若寺町)の建物を保存しようと、周辺の34自治会の代表者らが宮地重光所長に建物の重要文化財指定を求める要望書を提出した。
同刑務所は、明治政府が建設した「五大監獄」のひとつで、明治41年に完成。
重厚なれんが造りで、屋根をドーム状にした表門や、集中管理しやすいように庁舎から放射状に広がる5棟の舎房などが現存する。
同時期に千葉、長崎、鹿児島、金沢でも同様の監獄が建設されたが、当時の姿をほぼそのまま残すのは奈良だけという。
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