太平記で有名な作楽神社

地域

『太平記』によれば、備前国の武将、児島高徳が、元弘の乱(1331年)の後、隠岐へ流される後醍醐天皇を奪回しようと船坂山や杉坂峠で試みるも失敗。
この地に宿泊した際にも厳重な警備にはばまれた。

その時に庭の桜の木に無念の句を彫り込んだといわれている。
この地は後鳥羽上皇の荘園であったことから「院庄」と呼ばれる。
明治2年には館跡の中央部に作楽神社(さくらじんじゃ)が創建された。

作楽神社(さくらじんじゃ)は、岡山県津山市神戸にある神社である。
鎌倉時代から室町時代にかけて美作国守護の館(「院庄館」)があった地に、後醍醐天皇とその忠臣児島高徳を祭神として、明治2年(1869年)、津山藩主松平慶倫により創建された。

境内には約100本のソメイヨシノが植えられている。
また、神社の敷地全体が、国指定の史跡「院庄館跡(児島高徳伝説地)」となっている。

1331年(元弘元年)に鎌倉幕府の打倒に失敗し囚われの身となった後醍醐天皇は光厳天皇への譲位を強制された後、翌年3月になって京から隠岐へ配流されたが(元弘の乱)、その途上、美作国院庄の守護館に宿泊した。

一方、備前国の土豪児島高徳は手勢を率いて、護送の途中で先帝(後醍醐天皇)を解放しようと企てたが、好機を見いだせないまま院庄まで追跡してきていた。
厳重な警護をかいくぐり守護館の庭に単身潜入した児島高徳は、桜の木の幹を削って白くなった所に、十字詩を刻んだ(「白桜十字詩」と呼ばれる)。

江戸時代になって津山藩家老、長尾勝明は児島高徳の忠義心を讃え、1688年(貞享5年)、その桜の樹があったと伝わる場所に、高徳顕彰碑を建てた)。

そして、津山藩主松平慶倫は、1868年(明治元年)に政府から神社創設の許可を得て、翌1869年(明治2年)11月27日に社殿が完成し、作楽神社の創建となった。1877年(明治10年)、県社となり、1903年(明治36年)、従三位の神階を贈られた。

十字の詩
児島高徳が後醍醐天皇をお慰めするため、桜の幹を削って書いた十字の詩は、
  天莫空勾践 時非無范蠡
  天勾践(こうせん)を空(むな)しうするなかれ
  時に范(はん)蠡(れい)無きにしもあらず

という五(ご)言(ごん)絶(ぜっ)句(く)の半分で、その意味は、天は姑(こ)蘇(そ)城に幽閉された越王勾践(こうせん)のような囚われの後醍醐天皇を空しく殺し奉ってはならぬ。
時に越王を助けて会稽(かいけい)の恥を雪いだ范(はん)蠡(れい)のような忠臣がないこともない。
                    (岩波『日本古典文学大系』)

であります。後醍醐天皇は今、呉に敗れた越の王勾践(こうせん)のようなお立場ですが、私、越王を助けた忠臣范(はん)蠡(れい)の心をもった児島高徳がおります、必ずご運の開けるよう死力をつくしますからご安心くださいと、うったえたものであります。

この詩が刻まれた桜は「忠義桜」と呼ばれ、昭和初期には上記エピソードをもとにした歌が作られ、全国に知られるようになった。

オッペケペー節や壮土芝居で有名な川上音二郎は、晩年、妻の貞奴と共に児島高徳の史劇で全国をめぐったが、津山を訪れた際、作楽神社に参拝してその荒廃を嘆き、独力で拝殿と石橋を寄進した。明治末年のことである。

今、神楽殿として使用しているこの建物がその拝殿であり、NHK大河ドラマ「春の波濤」のヒロイン貞奴とその夫音二郎の敬神の志を今にとどめている。

作楽の真名井

さざれ石
この石は、石灰石が雨水にとけて、その石灰分を含んだ粘着の強い乳状体となって地下で小石を集結し、次第に大きくなってそれが地上に出て、君が代に詠まれているごとく千代、八千代を経てさざれ石の厳となりて苔のむすという実にめでたい石である。
特にこの石は君が代発祥の地といわれる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったものである。

後醍醐天皇御製
あはれとはなれも見るらむわが民を
   思ふこころは今もかはらず
よそにのみ思ひぞやりし思ひきや
   民のかまどをかくて見むとは


東大門桜樹址
元弘の乱に、後醍醐帝隠州に狩し 翌華此の地に次りたまふの日 児島備後三郎高徳密かに宿営に来り 桜を削りて書して云ふ、天勾践を空しうすること莫かれ時に范蠡無きにしも非ずと、事、口碑に詳し。
此を賛せず。

今、邑民伝へ称すらく、往昔の桜、泯滅して既に旧し、厥の地曽て東大門と号す。
近ごろ其の遺蹤に困りて、新桜一株を栽ゑ、又石に刊みて渠の忠誠を旌し、且つ人をして行在の蹟を織らしめんと欲す。
銘に曰く、皇帝赫怒して、鳳駕西に翔けたまふ。

天神聖を翼け。
爰に賢良を降す。
片言を桜に誌して。
百世に芳を流す。
分を明らかにして賊を討ち。
忠をケイして王に勤む。
義気を石に刻めば。
烈日厳霜のごとし。

「方八十間」といわれた広大な館跡からは、昭和48年から49年と55年から56年に行われた発掘調査によって、井戸跡、建物の住穴等が検出された。

摂社 護桜(ごおう)神社
院庄故事の顕彰や作桜神社の創建・護 特に功労のあった方々をお祀りしている。

社殿は、旧本殿(明治二年)を転用している。境内地は、約一万坪、鎌倉時代の守護職の館であった。大将十一年、「院庄館跡、児島高徳伝説地」として国指定の史蹟となった。
社宝の太刀(※銘、来国行)は、国指定の重要文化財である。

後鳥羽上皇が隠岐へ遷幸の途次、この地で病没した寵妃姫法師を葬った。
元は現在地(駐車場)から南東にあった。

にらみあ合いの松
江戸初期、美作18万6千5百石初代の藩主として森忠政(森蘭丸の弟)がこの地に築城を考え、慶長8年(1603)春、ここに到着した。

適地を物色中、藩主夫人の兄であった名護屋九右衛門と、重臣井戸宇右衛門の意見が合わず、遂に両者の果し合いとなり相打ちで二人とも死んだ。
この事件で築城を津山の鶴山に変更、二人の墓を道路をはさんで造り、塚として松を植えた。
ところが通行人に変事が続くので道を北へ移し、塚は田んぼの中となり南に井戸、北に名護屋と並び、一方が栄えると一方が弱まるところから「にらみ合いの松」と呼ばれるようになった。

この名護屋九右衛門とは、京の四条河原で歌舞伎をはじめた出雲の阿国と浮名を流した名古屋 山三郎のこと、出雲阿国が郷里に帰る途中この墓に詣でて涙したと伝えられている。

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作楽神社へのアクセス、行き方歩き方

住所:岡山県津山市神戸433
TEL:0868-28-0719

姫新線院庄駅から徒歩で約15分
中鉄バス・おおぞらバス「作楽神社前」停留所下車