延喜3年(903年)に菅原道真が没した後に天神信仰が広まり始めるが、天暦3年(949年)に道真ゆかりの大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。
そして、それを聞いた村上天皇の勅命によってこの地に天満宮が建立される事となった。
以後、当社は大将軍社を摂社として新たに天満宮が中心の社となる。
表門、天井には東西南北と十二支の名の記載された方角盤が飾られています。
度々火災に見舞われている。
なかでも享保9年(1724年)の享保の大火(妙知焼け)では全焼の憂き目にあっている。
後に復興したものの、今度は天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱による大火でまたも全焼してしまった。
天保14年(1843年)には現在の本殿が再建されて復興を果たしている。
1945年(昭和20年)の大阪大空襲の際には幸運にも被害を免れている。
登竜門
初詣のさいなどは、大勢の人が門をくぐりますが、登竜門というのは、中国の大河・黄河を上流に向かって登っていくと龍門に着き、高く険しい瀧や厳しい早瀬を飛び越えると、鯉が龍になる…という「登龍門の伝説」から来ています。
中国では、龍は王道を歩む王者の象徴で、人徳共に兼備した人のことを指しています。
蛭子門(えびす門) 大阪天満宮には六つの門があり、それぞれに用途と由来がある。
正面西側(南西側)の蛭子門は、もともとこの門を入ってすぐ左手に戎社が祀られていたことから「戎門」と呼ばれており、現在は戎社は移動されたがその名が今に伝えられている。
戦後途絶えていた十日戎が、上方落語協会会長・六代桂文枝の意向もあり2007年(平成19年)に「天満天神えびす祭」として復活する。
天満天神えびす祭では天神祭などで活躍した天神天満花娘が福娘として奉仕する。
大阪ガラス発祥の地の石碑、裏面には「宝暦年間(一七五一)長崎商人播磨屋清兵衛天満天神鳥居前ニ工場ヲ設ケ当時ノ玉屋ヲ開業大阪ガラス商工業ノ始祖トナル」と刻まれています。
この辺りは旭硝子や東洋ガラスの発祥の地でもあり、戦前は多くのガラス工場が建ち並んでいたそうです。
白雉元年(650年)、孝徳天皇が難波長柄豊崎宮を造営した際、その西北に守護神として大将軍社を創建したのがそもそもの始まりである。
延喜元年(901年)に菅原道真が藤原時平によって九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、この地にあった大将軍社に参詣し、旅の安全を祈願している。
本殿裏手にある十二社に祀られている神々、読んでいて、このうちの何人かが非業の死を遂げていることに気がつきました。
右から吉備聖霊・早良親王・藤夫人・伊豫親王、とんで藤原廣嗣・橘逸勢・丈太夫たちが政争に絡んで非業の死を遂げた方々、火雷神・火産霊神は火・雷ということですから道真公を意識した祟り神、埴山比売神・天吉葛神・川菜神は荒ぶる火の神を鎮める力を持つ神様たちということのようです。
すなわち道真公と同様、政争により非業の死を遂げた方々を一緒に祀ってその霊を慰める一方、特に道真公についてはその怒りを鎮める神々三柱を配しているようです。
白米(しらよね)稲荷社 – 祭神:稲荷大神。
伏見稲荷大社の奥院と称される。
付近に七夕池・明星池・夫婦池等が明治年間まで現存していた事は昔「難波碕」の付近に残った沼沢の名残であると思われます。
昭和の初めまで池には「宇賀の社」があり、紅梅紫藤が咲きみだれ付近には歌舞伎を常打としていました。
天満八千代座浪花節の国光席 吉本興業発祥となった天満花月吉川館などの寄席が隣接していた歓楽街でした。
池に架かっている「星合橋」は一名「愛矯橋」とも言われています。
天神橋の橋名飾板が2枚ありました。
裏面に明治21年と記されています。
祖霊社 – 祭神:大阪天満宮神官の神職および氏子・崇敬者の祖霊を祀る。
招魂社は、戦後、上方落語の復興に尽力した六代目笑福亭松鶴ら「四天王」をはじめ、同協会が発足した1957年以降に死去した落語家を祭っている。
天満宮北側の星合池のほとりにあり、落語定席「天満天神繁昌亭」と目と鼻の先という落語家やファンになじみの地に新設された。
川端康成誕生地跡
明治32年(1899)6月14日、川端康成は大阪天満宮の表門からほんの少し東、現在は料亭「相生楼」が建つ場所で生まれた。
その門前に「川端康成生誕の地」の石碑が静かにたたずんでいる。
大阪北区天満、当時の大阪市北区此花町のこの場所で、康成の父・栄吉は開業医として医院を営んでいたが、肺結核を患い、康成が1歳になるかならない内に死去。
母・ゲンの実家近く(現在の東淀川区に)へ転居したが、その母も明治34年(1901)、1月に亡くなった。
幼くして両親とも亡くした康成は翌年、祖父母に引き取られ、現在の茨木市宿久庄、当時の大阪府三島郡豊川村へと移り住む。
住吉大社 枝垂れ桜見納め
早朝に住吉大社を訪れた。 汐掛け道は人通りもまばら、ちょうど側道の植え込みに潅水 … 続きを読む →
川端康成が、戦後に発表した、「しぐれ」「住吉」とともに住吉3部作の一つとして数えられる「反橋」には、「上るよりもおりる方がこはいものです。
私は母に抱かれておりました」と描いており、橋の傍には康成の文学碑が設置されております。
文末にあらすじを掲載しておきます。
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