大山崎町 宝積寺界隈

京都府

丘陵地が平野に近く迫り、そのふもとに桂川と宇治川、木津川の合流点が位置するため、山崎は古来から交通の要地であった。

明智光秀を豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が破った山崎の戦いは天王山山麓で行われた。

この故事から雌雄を決することや勝負の分かれ目のことを「天王山を迎える」(または単に「天王山」)と呼ぶ成句が生まれた。

妙喜庵は、明応年間(15世紀後半)の創建で、俳諧連歌の祖=山崎宗鑑が隠棲していたとも伝わります。

待庵(国宝)は、千利休の作と言われる、現存最古の茶室です。
侘び茶の精神を二畳の狭い空間に具現化しています。

直ぐ近くの「大山崎町歴史資料館」で「待庵のレプリカ」を見ることは出来ますが、此方も撮影禁止です。

山崎の戦いのときに、秀吉の陣中に招かれた利休が作った茶室を解体・移築したものとも、利休屋敷にあった茶室を移築したとも言われています。

点前座と客座を合わせて僅か2畳という最小限の広さで、西側の次の間と北側の勝手を含めても4畳半という、非常に簡素な造りです。

「躙口(にじりぐち)」を設けた最初の茶室とも言われます。

山崎は竹が多いので、平天井の竿縁や掛込み天井の垂木など、随処に竹が用いられているのも特徴です。

JR山崎駅から天王山へ至る、踏み切りを渡りきると、ちょうど天王山登山口にこの霊泉連歌講跡碑と山崎宗鑑句碑が立っています。

霊泉連歌講跡碑の横にある山崎宗鑑句碑の句には

うずききてねぶとに鳴や郭公〉と句が彫ってあります。

これは、「卯月が来て声太く鳴いているのはホトトギス」という意味と「根太(=デキモノ)が疼いてきて泣いているホトトギス」という裏の意味をこめた俳諧で、交流のあった伊勢神宮祠官・連歌師の荒木田守武が根太にかかっていたのを揶揄したものと言われています。

没後は、宗鑑を偲んで山崎を訪れる人が多く、松尾芭蕉も西遊の途中で立ち寄り句を詠みました。

禁門の変の焼け残りの門(旧家石上の表門)が残っておりそこに芭蕉の句碑があります。

天王山中腹にある宝積寺(宝寺)は、724年聖武天皇の勅願で行基が開いた真言宗の寺。

本尊は聖武天皇が行基とともに彫刻したという十一面観音である。

仁王門の金剛力士像は、280センチ前後の像高を誇る鎌倉時代の力強い像。
迫力と安定感がともにあるすぐれた仁王像である。

目は飛び出さんばかりで、腹のこぶのような筋肉が、こめた力によってか、吹きすさぶ風のためにか、震えるように表現されている。
阿形像の腰の衣は大きく渦巻くようにつくられる。

門の中に安置される像は、多くの場合金網がかけらえていてよく見えないということが多いが、この像では網がなく、たいへん拝観しやすい。

境内からは桂川、宇治川、木津川の三点合流地点から淀川を経て枚方の辺りまで望める。

仁王門をくぐって左手に室町時代(1519)大山崎・松田宗誠寄進の歌人待宵小侍従ゆかりの「待宵の鐘」がある。

待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは
と詠んだことから、待宵小侍従と呼ばれるようになった。

小侍従の旧蹟が近くにあることに因んでの名でしょうが、恋人が通ってくるのを待ちわびる恋心を、お寺の鐘名にするとは粋ですね。

参道沿いにある三重塔(国指定重要文化財/桃山時代作)は羽柴秀吉が「山崎の合戦」の際に合戦で亡くなった人の霊を弔むらうため一夜で建立したといわれている。

美しい桃山建築様式をいまに伝えています。

仁王門をくぐると、正面が本殿です。
本堂の向こうには天王山があります。

天正10年(1582年)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。

直後秀吉により天王山に建設された「山崎城」にも取り込まれ、このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。

元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地がおかれた。

大正4年(1915年)には夏目漱石が当地を訪れた。

漱石は、宝積寺の隣地に実業家・加賀正太郎が建設中であった山荘(現・アサヒビール大山崎山荘美術館)を訪れ、「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠んだ。

聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺ともいいます。

五色幕(ごしきまく)は、仏教の寺院の壁などに掛けられている5つの色の幕のこと。

五色幔幕。配色には差異があるが、一つの例として白・青・黄・赤・黒などがある。

ただし青と黒は現在使われる青色(ブルー)や黒色(ブラック)ではなく、伝統的表現の緑(翠)と青(群青)で表される

仏教の寺院であることを表し、釈迦如来の説いた教えを広く宣べて流布させることを表している。

寺院の落慶時の法要などや、灌仏会(花まつり)などの年間の大祭で寺院の壁面や堂内の入り口にこの五色幕が掛けられる。

本堂の脇には「秀吉 出世石」と呼ばれる石があります。

「山崎の合戦」では、秀吉は一時この寺を陣所とし、その際にこの石に腰掛けたという言い伝えがあるようです。

江戸時代に柴田鳩翁という心学者が書いたお話しの中に、天王山にまつわる、「京の蛙と大阪の蛙」というお話があります。

むかし、京に住む蛙が、大阪を見物したいと望んでいました。この春に思い立って、難波など名所を見物しようと言い、西の明神から、西国街道を山崎へ出て天王山に登りました。

また、大阪にも京都を見物したいと思い立った蛙があって、これも西国街道を瀬川、芥川、高槻、山崎と出かけ、天王山へ登り山の頂で両方が出会いました。

互いに仲間同士であるからして、その志しをいいます。

「これほど大変な苦労をして来ても、まだ道半ばじゃ、ここから京、大阪に行けば、足も腰ももつまい。

名に負う天王山の頂上、京も大阪と相互互いに相談して、立ち上がり、足を爪先立てて、向こうをきっと見渡した。

京の蛙が言うには、「音に聞こえた難波の名所も見れば、京に変わりがない。
どうしよもない目をして行くよりも、今からすぐに京に帰ろう」という。

大阪の蛙も目をぱちぱちさせて、あざ笑うように言う。

「花の都と音には聞くけど、大阪も少しも違いはせぬ。
それならば私も帰るべし」と互いに会釈して、またのさのさと這って帰りました。

つまり蛙は向こうを見渡したつもりではありますが、目の玉が背中についてあるので、見たものは下の古さをみただけ。

どれほど見つめていても、目の場所が違っているからには気がつきません。
うろたへた蛙の話をよく聞いてくださいませ。 鳩翁道話より抜粋

間の抜けた蛙の話ですが、つい自分の目はいったいどこについてるのか?ちゃんと物事を見ているのか?と自問したくなる話でもあります。

柴田鳩翁は道話の神様といわれ、鳩翁道話の正編は1835年(天保6),続編36年,続々編38年刊。ベストセラーになりました。

蛙の像は大山崎ふるさとセンター内、大山崎町歴史資料館へ行く2階階段手前にあります。

離宮八幡宮は日本における製油発祥の地であり、日本唯一の「油の神様」として親しまれています。

かつて日本で油といえば、荏胡麻(えごま)油が主流でした。
油は、主として照明用の灯油として用いられ、灯油の最大の需用は寺社の灯明用でした。

江戸時代に菜種油が普及するまでは日本で植物油と言えば、この荏胡麻(えごま)油で、山崎には、大山崎油座という鎌倉時代~戦国時代にかけて、山崎地域で荏胡麻(えごま)油を、原料の仕入れから製油・販売までを独占して販売し発展していた油座がありました。

しかし、戦国期の織田信長の楽市・楽座の制によって山崎の油業は衰退していきました。

斎藤道三は大山崎の油売りから身を起こしたというのが通説になっているが、どうもそうではなさそうだ。

「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は、江戸寛永年間成立と見られる史書『美濃国諸旧記』などにより形成され、坂口安吾・海音寺潮五郎・司馬遼太郎らの歴史小説で有名になっていた。

しかし、1960年代に始まった『岐阜県史』編纂の過程で大きく人物像は転換した。
編纂において「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)の中から永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」が発見された。

この文書は近江守護六角義賢(承禎)が家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、前欠であるが次の内容を持つ。

1.斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。
2.新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。
3.新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。
4.義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。
5.道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。

同文書の発見により、従来、道三一代のものと見られていたいわゆる「国盗り物語」は、新左衛門尉と道三の二代にわたるものである可能性が非常に高くなった。

父の新左衛門尉と見られる名が古文書からも検出されており、大永6年(1526年)6月付け「東大寺定使下向注文」(『筒井寛聖氏所蔵文書』所収)および大永8年2月19日付「幕府奉行人奉書案」(『秋田藩採集古文書』所収)に「長井新左衛門尉」の名が見えている。

一方、道三の史料上の初出は天文2年(1533年)6月付け文書に見える「藤原規秀」であり、同年11月26日付の長井景弘・長井規秀連署状にもその名が見えるが、真偽の程は不詳である。

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