多くの農民が籠城の末に散った島原の乱の舞台 原城址

島原半島の南部に位置し、1496年(明応5年)日野江城の支城として有馬貴純によって築かれた。
有明海に張り出した丘陵にあり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されていた。

本丸枡形の入口部分。
左側の上の部分に「骨かみ地蔵」が祭られている。

「骨かみ地蔵」とは、明和3年(1766)7月15日、有馬村願心寺の住職であった注誉上人が、乱で死亡した人々の遺骨を埋葬して建立したものである。

「骨かみ」とは妙な名称だが、「骨と髪を埋めた」という説と「骨を噛みしめる意味だ」という説とがある。

本丸手前の空堀。
これまたでかい! 深さ10m、幅20mほどもある。

籠城の際にはここに萱などをかけて、女子ども3000人を収容していたというが、堀底に人員を収容したなど、にわかに信じられない話である。

空堀跡から見る本丸跡、手前は駐車場になっている。

島原藩主松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした。

この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。
しかし、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もった。

小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げた。
一揆側は3か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。

対する幕府軍も1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに1638年4月11日から12日(寛永15年2月27日から28日)にかけての総攻撃で一揆軍を壊滅させ、一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。

幕府軍は戦後、原城を徹底的に破壊した。
その一方で、島原藩主松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられた。

1637年(寛永14年)から1638年(寛永15年)にかけての島原の乱の後に、幕府は原城跡に残存する石塁などの破却を行っている。

城破りによって破却された本丸の櫓台石垣。
石垣隅部がV字状に崩されているのがわかる。
かつてこの石垣の上にはどのような櫓が建っていたのであろう?

本丸を囲む石垣、石垣下の道は、本丸の裏門である池尻口門跡へと続く道。

櫓台から島原湾を眺める。

原城本丸の正面玄関に相当する虎口(城の主要な入り口)遺構。
南北90m・東西80mと非常に大きく、また複雑で戦闘的な構造であったことが分かっています。

石垣内隈部の破壊状況。
壁に沿ってL字に並んでいるのが築城当時の石垣。

白洲の真砂
本丸跡の南方約300m沖合に、長さ1キロメートルに及ぶ瓢箪型の浅瀬があり、旧暦3月、8月の最干潮時などには白い洲が現れる。

これが地元で「白洲」と呼ばれ、世界でも珍しいリソサムニウム礁である。

リソサムニウム礁は礫などに着生した石灰藻の無数の密集地であり、時にはサンゴに似た固く大きな塊をつくる。
このような被覆性石灰藻がリソサムニウムであるという。

昭和2年に当時の広島高等師範学校佐藤伝蔵教授によって着目された。

本丸にある原城址碑。

16歳で島原の乱の総大将となった天草四郎の像。
原城本丸で祈りをささげるこの像は、長崎平和祈念像で有名な南島原市出身の彫刻家・北村西望氏の作品です。

本丸にある天草四郎の墓碑。
「○保○年 天草四郎時○○ ○二月○二十八○母」などと書かれている。

本丸内で斬首され、長崎で晒された。
かつて西有馬町の民家の石垣内にあったものを、この場所に移したものであるという。

本丸の裏門~池尻口門跡
近年の発掘調査によって、地下に眠る歴史の真実が蘇りつつある。

佐分利九之丞の墓

佐分利流の流祖佐分利猪之助は三人兄弟の次男であった。
長兄が九之丞成忠(きゅうのじょうしげただ)である。

池田輝政に関ヶ原の合戦での働きを評価され猪之助とともに召抱えられた。
寛永十四~十五年(1637~38年)に起こった島原の乱の際には鳥取池田藩より幕府軍に派遣された。

寛永十五年(1638年)二月二十七日原城の総攻撃が行われ、九之丞は第四子成次、第五子成興らを率い、先頭に立って戦ったが、本丸を目前にして戦死した。

享年61歳。

その際傍らにあった自然石に姓名と年月日を刻んで絶命したという。
現在も原城趾の本丸跡にその時の石と伝えられる墓石が残っている。
九之丞はまた鳥取の景福寺に葬られ、軍功により佐分利家は千石を加増されたという。

本丸にある十字架塔。

今日は雲仙岳は雲に隠されて見えない。

帰途、大村湾PAで、美しい眺めであったが、丁度まともに西日を受けて暗い画像に。

恋人の聖地となずけられた場所、アベックが仲よく記念撮影していた。

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原城址へのアクセス、行き方歩き方

住所:長崎県南高来郡南有馬町
電話:(0957)85-2153 原城観光協会

原城駅より徒歩15分