土井利勝が築いた名城 佐倉城

関東

1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。

江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。
城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている。

この池は江戸時代、かきつばたの名所でした

春先には近在のひき蛙がえるが数千匹あつまり、左右にわかれて昼夜7日間、蛙かえる合戦を行なっていたと、「古今佐倉真佐子ここんさくらまさご」(江戸時代中頃の書物)に記されています。

後に(天保年間)この池のまわりで家老の娘をおおもりしていた姥うばがあやまって娘を池に落としてしまい娘はそのまま沈んでしまいました。
姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来「姥が池」といわれるようになりました。

空堀。

佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。

三の門跡。

戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。

二の門にいたる付近に、タウンゼント・ハリス像と堀田正睦公像があります

ハリスといえば、安政5年(1858)の日米修好通商条約締結時のアメリカ総領事として日本史に登場します。

このハリスの像がなぜにこの佐倉城にあるのかというと、それはハリスと外交交渉をしたのが当時の佐倉城主、堀田正睦だったからだということです。

攘夷が叫ばれる中、欧米列強に対抗するには、開国し、貿易によって国を富ますことが肝要という考え方をもっていたそうです。

堀田正睦像 幕末の老中として活躍した佐倉藩第5代藩主

蘭学を好み、藩内の人材育成に努めます。

また、日米修好通商条約締結に向けて、孝明天皇の勅許を得るべく奮闘しますが失敗し辞職。
また、将軍継嗣問題では徳川(一橋)慶喜を支持しますが、井伊直弼の前に敗北し隠居しました。

二の門跡。

正岡子規が佐倉城に訪れたときに詠んだ詩「常磐木や 冬されなさる 城の跡」を刻んだ石碑

一の門跡。

土塁

明治維新後に廃城令により建物を撤去。
その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となったため、更に佐倉城の名残は消し去られてしまった。

1962年(昭和37年)3月28日市の史跡に指定され、現在は跡地に佐倉城址公園が建てられており、その一区画に国立歴史民俗博物館が建っている。

木造、銅瓦葺、六間四方、二階造り。
この銅櫓(どうやぐら)は、土井利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築したものでもとは三層であって、太田道灌が造ったものといわれている。

不明門(あかずのもん)跡

その名のとおり、普段は締切ってあったのでしょう。


佐倉陸軍病院跡
創設は明治7年です。
佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戍病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷しました。
昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。

兵営の便所跡
雨天休憩所近くに土台のみが残っています。
江原新田では連隊と契約し、下肥・馬糞の払い下げを受け、汚物掃除を担当していました。

国立歴史民俗博物館

ここまで東京からでも行きにくいのが難点ですが、収蔵展示物は第一級のものばかり。
一度は見ておきたい歴史博物館です。

「歴博」の建つ場所が椎木曲輪。
三ノ丸の外郭に相当し、かつては侍屋敷や寺などがあったという。

復元された椎木門馬出し
ある意味で最大の見所、椎木門の大きな角馬出し。

周囲の堀は遺構保存のためかつてより浅くしてあります。
ちょっと綺麗過ぎる気がしないでもないですが。

佐倉城へのアクセス、行き方歩き方

千葉県佐倉市城内町官有無番地

JR総武本線佐倉駅北口より徒歩約25分(駅からバス有り)
京成電鉄京成本線京成佐倉駅南口より徒歩約20分(駅からバス有り)

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