今日のお昼は道の駅「かわはら」
川原城址、美作方面への街道と播磨方面への街道の結節点であり、重要な水運路でもあった千代川を見下ろす要衝の小丘に建てられ、1580年の羽柴秀吉による第一次鳥取城攻略戦の際に陣が置かれたと伝えられている。
ただし、当城が秀吉の本陣だったかどうかは不明。
城跡には犬山城天守を模した展望台(模擬天守)が建設され、「河原城」「お城山展望台」と呼ばれている。
展望台の内部は、旧河原町の観光案内所と資料館となっており、羽柴秀吉が因幡平定後に発した感状などが展示されている。
因幡万葉歴史館は奈良時代~平安時代に因幡国国府が置かれていた国府町に立地する。
当地ゆかりの大伴家持ら万葉集の歌人と、因幡国の歴史民俗文化に関する資料を展示する。
因幡万葉歴史館の竣工を記念し、古代因幡の豪族伊福部家の67代目に当たる、戦後を代表する作曲家の伊福部昭に、大伴家持の万葉集の歌の作曲を依頼し「新たしき年の初めの…」を始めとする「因幡万葉の歌5首」の歌曲が誕生した。
歴史館の竣工式の日に国府町中央公民館で、25絃箏の野坂恵子など日本を代表する演奏家によって初演が催された。
伊福部昭の直筆による楽譜が歴史館に寄贈されている。
因幡の傘踊りは、100個の小鈴をつけ美しく彩った長柄の傘を使い、揃いの浴衣に手甲脚半、白鉢巻に白たすきの凛々しいいでたちで、唄にあわせて傘を回転させながら振り回す、真に勇壮で動きの激しい踊りです。
万葉と神話の庭
一歩外に出れば、回遊式庭園があり、せせらぎに耳を傾けながら「万葉集」に詠まれた約40種類の植物や、国府町にちなむ彫刻を散策できます。
四季折々を彩る万葉植物を楽しめます。
かつら
秋、ハート形の形の良い葉が紅葉します。
材は楽器や家具に使われる。
向つ岡の 若楓(わかかつら)の木 下枝(しづえ)取り 花待つい間に 嘆きつるかも 作者不詳 巻7-1359
乙女を我がものにし、成長を待っている間が待ち遠しく嘆かわしい。カツラの新緑は乙女にふさわしく初々しいものです。
9つの鳥や犬などをモチーフにした彫刻が庭園のいたるところに配置されています。
時の広場
時を刻む日時計をモチーフに、さる・とりなどの「十二支」の彫刻が各方角に配され、悠久の時を感じることができます。
少し離れた場所に家持の歌碑があります。
新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其謄(作者 大伴家持 巻20-4516)。
読み方:「新」は「あらたしき」、「年乃始乃」は「年の始めの」、「波都波流能」は「初春の」、「家布敷流由伎能」は「今日降る雪の」、「伊夜之家餘其謄」は「いやしけよごと」。
口訳:新年と立春が重なり、おまけに目出度い雪が降っている。このように良いことが重なって欲しい
『万葉集』は家持のこの歌をもって終わる。
因幡国に着任したその挨拶として詠んだ歌とされ、万葉全歌をしめくくる歌であるとともに、以降に家持の歌はない。
この歌碑の右側に佐々木信綱が大伴家持の「新しき 年の始めの・・・」から1200年の祭典で詠んだ歌碑が近くにあった。
歌碑:ふる雪の いやしけよ事 ここにして うたいあげけむ ことほぎの歌
口訳:お目出度い雪が降って良いことが重なるこの地で祝福の歌を歌う。
藤波の 散らまく惜しみ ほととぎす
今城の岡を 鳴きて越ゆなり 読み人知らず
巻10-1944
藤波は藤の花。「今城(いまき)の岡」は奈良県大淀町内の地名その他諸説あって未詳。
「藤の花の散るのを惜しみ、ホトトギスは今城の岡を鳴きながら越えていった」という歌である。
これらの歌碑から少し離れた所に在原行平が因幡の国司として赴任する時の歌碑があった。
この歌は古今和歌集巻8-365に乗っていて百人一首の歌でもある。
歌碑:たちわかれ いなばの山の 峰におふる まつとしきかば 今帰りこむ(在原行平 古今和歌集巻8-365)
口訳:お別れして、因幡へと去ったら、稲葉山の峰に生えている松ではないが、私の帰りを待ち遠しく思ってくれるだろうか。
故郷からの便りでそう聞いたらすぐ帰ってこよう
国府支所の玄関前に展示されていた展示用 カラーマンホール。
町の花「さつき」、町の木「松」、 中央に日本の滝百選「雨滝(あめだき)」が描かれています。
上部に「因幡のふる里」、下部に「こくふ」の文字。
農業集落排水 汚水管マンホール蓋
族(やから)に諭す歌一首
ひさかたの天の戸開き高千穂の 獄(たけ)に天降(あも)りし皇祖(すめろき)の神の御代より櫨弓(はじゆみ)を手握り持たし 眞鹿子矢を手挟み添へて大久米の ますら健男(たけお)を 先に立て 靭取(ゆきと)り負せ 山川を 磐根さくみてふみとほり 國まぎしつつ ちはやぶる 神をことむけ 服従(まつろ)はぬ 人をも和し掃き清め 仕へ奉りて あきづ島 大和の國の橿原の畝傍の宮に宮柱 太知(ふとし)り立てて 天の下 知らしめしける 皇祖(すめろき)の天の日嗣とつぎて来る君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇方(すめらへ)に極め尽して仕へ来る 祖(おや)の官(つかさ)と 言立てて 授け給へる 子孫(うみのこ)のいやつぎに見る人の 語りつぎてて 聞く人の 鑑にせむを 惜(あたら)しき清きその名ぞ凡ろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 祖(おや)の名断つな 大伴の氏と名に負へる 丈夫(ますらを)の伴 (巻二十・四四六五)
【口語訳】
天の戸を開き高千穂の岳に降りられた天孫の昔から、はじ弓を手に持たれ、真鹿子矢を脇にはさみ、大久米のますらおたちを先頭に、靫を背負に山川の岩を越え、国を捜し求め、荒れ狂う者たちを鎮圧し国を静めて、橿原の畝傍に宮を建てて、天下をお治めになった天皇の代々の御代に、清い心で仕えてきた祖先から引き継いできた官職であるとお言葉をいただいた大伴家の子孫たちが代々、語り伝えて鏡にすべき立派な名前である。
おろそかにして先祖の名を絶やしてはならない、大伴の氏の名を持つますらおたちよ。
そして、764年、家持は因幡守から薩摩守へ、重ねての転任というかたちで再び左遷させられている。
慎重に行動するよう戒めた「族に諭す歌」から約7年後にして家持が、今度は自らが戒められる側に回ったからである。
仲麻呂暗殺計画に参画したのだ。
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