「鴻臚館」とは、平安時代に築かれた外交のための迎賓館。
平安京(京都)、難波(大阪)、そして筑紫(福岡)の3ヵ所に設けられた。
その中で唯一遺跡が確認されているのが現福岡市中央区にある筑紫の「鴻臚館」なのだ。
文献上には持統2年(688)、「筑紫館(つくしのむろつみ)」として初めて現れ、平安時代になって中国風の「鴻臚館」という名に変わった。
7世紀後半から11世紀まで約400年の間、遣唐使や新羅の使節団、商客らを迎え入れたとされる。
磐井の乱(527年 – 528年)の後、宣化元年(536年)に那津のほとりに宮家(遠の朝廷:とおのみかど)を設置し、九州支配と外交の役目を果たす。
推古17年(609年)には筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)の名で『日本書紀』に登場。
白村江の戦いの翌年(664年)に行政機能は内陸の大宰府(現在の太宰府市)に移転、那津のほとりには大宰府の機関のひとつとして海外交流および国防の拠点施設が残された。
鴻臚館跡展示館では出土品の展示のほか、発掘された遺跡の上に覆屋を建て、礎石などの遺構を発見時のままの姿で公開している。
鴻臚館の遺構
古代のハイウェイ
畿内と並んで、その古代官道の二大拠点となったのが大宰府!
九州では西海道が整備されますが、域内すべての官道は基点大宰府から延びています。
また、大陸との外交や軍事面を担った「大宰府政庁」と、海外交流・国防の拠点であった迎賓館「鴻臚館」とを結ぶ「大宰府官道」は、その基幹的な道路でした。
調査、検証の結果から、福岡市南区の「高宮通り」あたりを抜けて水城西門を通る「西門ルート」と、現在の博多港付近にあったとされる袖の湊から水城東門を通る「東門ルート」の2本のルートがあったことが判明しています。
ともに、10km以上におよぶ直線路の幅広い道です。
今から1200年も昔の8世紀の奈良・平安時代、鴻臚館と大宰府政庁を結ぶ2本の直線道路が既に整備されていた!
昭和62年(1987)、平和台球場外野席改修の際、遺構の残存が発見され、翌年から発掘調査が始まった。
福岡城跡に建てられた平和台球場も、今は解体され、鴻臚館(こうろかん)の発掘調査が続いている。
福岡市のマンホールの蓋のデザイン。
何が描かれているか不明です。
市のホームページには「鳥、ヨット、街並みなどの抽象的なデザインの組み合わせが『人の都・福岡市のアクティブなイメージ』を連想させる」とあります。
鴻臚館へのアクセス、行き方歩き方
住所:福岡市中央区城内1
電話:092-721-0282
シティループバス「ぐりーん」平和台鴻臚館前平和台・福岡城址からすぐ
市営地下鉄「赤坂駅」下車、徒歩7分、
西鉄バス「平和台鴻臚館前」「赤坂3丁目」下車、徒歩7分