城は江の川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。
吉田郡山城は毛利氏が広島城へ移るまで使われた。
吉田歴史民俗資料館
毛利家が活躍した戦国時代を中心に、吉田の歴史と民俗を紹介した資料館です。
安芸郡山城へはここからスタートです。
郡山城立体復元模型。
郡山城跡案内図
郡山城跡散策に有効です。
「むかしのしごと」コーナー
むしろ機( むしろばた )
農家の必需品である敷物の「むしろ」を編む道具です。
むしろは農家の敷物で、特に囲炉裏(いろり)の間の敷物として重宝されていました。
農作業をするときには道具・用具の敷物として、穀物(こくもつ)の天日乾燥時には敷物として用いました。
各農家に一台はむしろ機がありました。
「いろりの間」コーナー
「だんじり屋台 千歳山」
民俗資料館前にある司馬遼太郎「芸備のみち」碑。
郡山城全景
城は江の川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。
築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。
後に毛利輝元が広島城へ移るまで使われた。
城内には、城主元就だけでなく、嫡子毛利隆元や一部の重臣たちの館も設けられたといい、戦時のみ城郭に籠もる従来型の山城から、平時の居館と戦時の城郭が一体化する近代的な性格を持つ城に変わっていく。
毛利元就像
毛利元就は安芸の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を伸ばした戦国時代の名将です。
元就の火葬場跡
元亀2(1571)年6月14日、御里屋敷で75歳の生涯を終えた元就は、6月20日の初七日の法会後に竹原妙法寺住持、嘯岳鼎虎禅師を導師に、この場所で火葬された。
青三井山尼子陣所跡。
左が青山 右が三井山 総称して青三井山と言います。
郡山合戦(天文9年1540~天文10年1541)の時に 尼子詮久(晴久)が三万の大軍で
陣を構えた所です。
天文9年(1540年)から翌年まで続いた吉田郡山城の戦いでは、尼子詮久(後の尼子晴久)率いる2万の軍に包囲されるが、吉田郡山城には軍勢2400に農民などを加えて8000余りが籠城したという。
士気の高い毛利勢は尼子勢を翻弄し、常に主導権を握り、陶隆房率いる大内氏の援軍が到着するまで持ちこたえ、尼子勢の撃退に成功した。
毛利一族墓所
郡山初代城主毛利時親から元就の祖父豊元まで8代の合墓、ならびに兄興元、甥幸松丸、隆元夫人らの合墓がならんでいます。
百万一心(ひゃくまんいっしん)は、戦国時代の大名毛利元就が吉田郡山城の工事の際に人柱の替りに使用した石碑に書かれていた言葉。
本丸北側の石垣の基部に「一日一力一心(百万一心)」と書かれた礎石が埋められていると伝わる。
毛利元就の墓
元就は1571年(元亀2年)に城麓の御里屋敷で75年の生涯を閉じました。その墓は、郡山城跡山麓の洞春寺跡に残されています。
いよいよ登頂開始、暑い盛りだが木陰はありがたい。
嘯岳禅師の墓。
嘯岳禅師は筑前博多の出身で、明国に渡り修行を積んだ。
元就の死の際には葬儀の導師をつとめた。
この辺りからは吉田の町の眺望が利く。
御蔵屋敷近くにある堀切。
御蔵屋敷跡
東西約20m、南北約30mの広い敷地に建っていたといわれる兵糧蔵跡。
釣井の壇
直径2.5メートルの石垣で組まれた井戸があり、現在は深さ4メートルまで埋もれている。本丸の西側にある。
三の丸
城内最大の曲輪で、石垣・土塁・掘削などによって四段に分けられている。
本丸から南へ二の丸・三の丸と続きこの辺りは崩れた石垣や石塁が残る。
二の丸
高さ0.5m幅1mの石塁や石垣で囲まれ、27メートルと15メートルの方形に区画されている。
本丸
郡山山頂に位置し、一辺が約35メートルの曲輪で北端に一段高くなった櫓台(長さ23メートル、幅10メートル)がある。
全盛期には三層天守があったという。
廃城時期は、毛利氏の広島移住後の天正19年(1591年)、関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)頃などと諸説あるが、毛利氏の本城としての役目を終えた天正19年(1591年)が事実上の廃城時期と言って差し支えないと考えられる。
現在大阪城天守閣で保存されている穂田元清書状内で、文禄3年(1594年)に元清が兄の小早川隆景とともに吉田に出頭したとあり、何らかの形で吉田郡山城が維持されていたことが確認できる。
勢溜(せだまり)の壇
御蔵屋敷の下段を堀切で区画して独立させた大小10段から成り立っている。
満願寺跡
勢溜の壇の南東部にある寺。
案内板によると、満願寺は毛利氏が入場する以前からかなり古くからあり、元就の本家相続が決定し、郡山城に入城する日を満願寺の法師が決定したりしたそうだ。
毛利の広島移城に伴いこの寺も広島に移り、さらに萩城内に移ったが現在は、防府市にあります。
尾崎丸堀切。
尾崎丸は旧本城と新城の間を繋ぐ位置にあり、堀切で区画されている。
毛利隆元の居館があったと推定されている。
旧本城への道
郡山南東麓に位置し、建武3年(1336年)に毛利時親が築城して以来の毛利氏の本城だった。
標高293メートル。
今はがけ崩れで先へは進めないと聞いた。
中四国、九州にまで勢力を伸ばした毛利氏の鎮守杜であった清神社は、古代より鎮座していたと伝えられ、 日本書紀にある安芸国の可愛の川とは、この地を流れる可愛川であるといわれています。
現在の社殿は元禄7(1694)年再建のもので、境内社に伊勢社があります。
元就の「三矢の教え」が語源のサンフレッチェが優勝祈願に訪れる神社です。
毛利元就といえば有名な「三矢の教え」。
広島を本拠地にするサッカーチーム「サンフレッチェ」の語源でもあります(フレッチェはイタリア語で「矢」の意味)。
三矢の訓跡碑は青少年自然の家の敷地の奥にあり、場所がわかりにくい。
吉田民俗資料館からお城方面へ向かっていくと『安芸高田少年自然の家』があります。
この敷地内が御里屋敷跡(毛利元就の居館跡)です。
ここで毛利元就は生涯を終えたと伝わっています。
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安芸郡山城へのアクセス、行き方歩き方
住所:広島県安芸高田市吉田町吉田字郡山
電話:0826-42-0070(安芸高田市吉田歴史民俗資料館)
吉田口駅から備北交通バス「吉田営業所行き」で約20分「市役所前」下車、徒歩約5分
広島バスセンターから吉田出張所行き 約1時間半