桶狭間の戦いは、2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、日本の歴史上有名な戦いである。
国指定史跡桶狭間古戦場伝説地
今川治部大輔義元墓
明治9年、有松の山口正義が建てたものである。
碑陰記によれば、弔古碑が建てられたあと、通りかかった旅人が義元の墓と間違えて香華を手向けたりしていた。
このため、あらためて周辺を整備し義元の墓碑を造ったという。
七石表(一号碑)
明和8年12月に尾張藩士人見弥右衛門桼・赤林孫七郎信之によって建てられた七基の石碑。
一号碑は今川義元の戦死した場所を示す。
二号碑は松井宗信戦死の場所。
三号碑以下は義元の武将五人の戦死の場所であり、氏名不詳である。
香川景樹の歌碑
香川景樹は桂園派の巨匠で、自分の歌風を江戸に広めようと出府したが、受け入れられなかったという。
失意での帰途に桶狭間を通り、この地に没した義元の気持ちを自身の心に重ねてこの歌を詠んだという。
《あと問へば 昔のときの こゑたてて 松に答ふる 風のかなしさ》
桶狭弔古碑
文化6年、津島の神官氷室豊長が建てた記念碑である。
古戦場が放置され荒れ果てていくのを嘆き、その由来を明らかにするとの趣旨が、裏面の碑陰記に記されている。
書は大阪天満宮の中西融で撰文は尾張儒官秦鼎。
石工は代々襲名している河内屋孫右衛門である。
そそり立つ急崖の向こう側は義元勢の本陣跡があった《高徳院》がある。
そこから逃げ下りてきた義元が、ここで討ち取られたかと思うと臨場感はさらに増してきた。
徳本の名号
徳本行者(江戸浄土宗の高僧 文化文政の頃の人)がこの地を訪れて敵味方の戦死者の霊を弔うために建てたものである。
円筒形の小塔であり 南無阿弥陀仏 の六文字の名号がきざまれている。
今川義元仏式の墓
万延元年に建てられた。
方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔型式であり、そのため「仏式の墓」と呼ばれている。
史跡桶狭間古戦場(桶狭間古戦場伝説地)の西側にあるのが、今川義元の本陣が置かれたという高徳院である。
高徳院の開基は智泉大徳(弘法大師の高弟)。
弘仁元年(810年)開創以来高野山上にあり、明治27年(1884年)桶狭間古戦場に移転した。
境内に残る義元本陣跡。
信長が奇襲攻撃をかけたといわれる方向へ登ってみる。
崖の上には「資料館」があるはずだが、閉鎖中となっている。
訪れる人も少なく、今では寺院関係の別の建物が建っている。
砦のあったといわれる辺りから桶狭間古戦場方面を望む、信長はこの砦の下に兵を集結し大将ケ根(太子ケ根)から一気に本隊2000人を南下奇襲した。
雨の中、信長が奇襲攻撃のためこの坂を下ったと伝承されています。
13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。
織田軍はこれに乗じて兵を進め、雨が止んだ直後の14時頃、織田軍は義元の本隊に奇襲をかけた。
今川軍の総勢は2万人であったとされるが、義元を守る兵力は5,000から6,000人に過ぎず、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となった。
豊明市のマンホールの蓋の図柄はまさに桶狭間古戦場。
同時代の史料からは丘陵、緩やかな谷あいや窪地が錯綜したこれら一帯のどこかで合戦が行われたことが明らかになるものの、正確な合戦地の範囲、今川義元の本陣所在地、義元の戦死地などは完全には確定できない。