住吉公園界隈の桜便り

大阪府

この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。
画像は2013年3月30日訪問時のものです。

住吉公園は、明治6年に太政官布達第16号に基づいて開設された歴史の深い公園です。
元は住吉大社の馬場であり、海岸が近く白砂青松の地でもあった。
汐掛道は船で訪れた人の参道で黒松が繁っていました。

心字池の廻りにはソメイヨシノが咲く。

早朝の公園は清々しく、散策する人、桜の撮影をする人、それぞれ春を楽しんでいる。

桜の上を飛翔するサギは公園を訪れる人にはお馴染みのサギ、いつも心字池の中の島に佇んでいる。

高い松の上に移動して様子をうかがう。

住吉公園の桜はソメイヨシノが大半です。

桜広場にはすでにブルーシートが敷かれている。

太鼓橋と桜、いい構図に見えるが切り取りが難しい。
四苦八苦していると三人連れのおばちゃんに「頑張っていい写真撮りや」と声援を送られる始末。

住吉っさんの南東側の石鳥居は豊臣秀頼が奉納した大鳥居、その脇に今、美しい花を咲かせているのが「車返しの桜」と呼ばれる、しだれ桜。
鳥居ははじめ東参道にあったのが解体撤去され,脚の下部を修復してこの場所に再建されたものです。

慈恩寺は真言宗に属する、津守家の菩提寺で、住吉っさんの東側、浅沢神社の北方にありました。
明治維新後に廃寺となりましたが、この寺内にかって有名な老桜がありました。

その老桜の前を南北朝時代の建武2(1335)年春の住吉行幸の折に、後醍醐天皇は車駕に乗って一旦通り過ぎたものの、この桜が余りにりも立派であった為、車駕を再び返して桜を賞でました。

そこから車返しの桜と呼ばれるようになったそうです。
桜は京都嵯峨の八重枝垂れ桜です。
樹木の選定と植樹された人は桜守と称される佐野藤右衛門氏。

後醍醐天皇は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇(1318~1339年)にして、南朝の初代天皇でした。

荘厳浄土寺は住吉神宮寺、津守寺と共に住吉三大寺として有名であったが、今は現存する唯一の寺となっている。
創建は天慶年間(930年~946年)頃と考えられている。
応徳年間に、白河天皇の勅願寺となり、荘厳浄土寺の寺号を賜る。

1084年(応徳元年)住吉大社第39代神主津守国基は白河天皇の勅命により、八町四方の寺域を以って再建したと伝わる。

後村上天皇の正平年間に、住吉に御畢(ひつ)中、御父後醍醐天皇の、御霊を御信修された聖蹟であると、山門に向かって右側の石碑の裏には書いてある。
後村上天皇は、後醍醐天皇追善のため、「法華八講」の法要を1375年(正平18年)と78年(同21年)と2回修し、五色仏舎利と和歌を奉納している。

吉野朝(南朝)の後村上天皇は、足利方の攻撃を避け、正平七年、住吉に滞在され、さらに同十五年より八年間、住吉に坐しまして、京都回復を図られたが、先帝以来のご悲願もついに果たすこともできず、正平二十三年(1368年)三月十一日、宝算四十一をもって、住吉大社から約300メートル南の行宮(正印殿)で崩御された。
参考記事:南朝の里 賀名生梅林散策

1910年(明治43年)3月8日 に設立された阪堺電気軌道株式会社。
恵美須町 – 今池間、今池 – 勝間(現在の東玉出)間、勝間 – 住吉鳥居前間、奥ノ天神 – 大和川間、大和川 – 少林寺橋(現在の御陵前)間、少林寺橋 – 船尾間、船尾 – 浜寺公園間を営業区間としていた。

公団住吉団地脇の桜もきれいだ。
この辺りは粉浜、万葉集(第六巻)では『住吉の粉浜のしじみ開けもみず隠りてのみや恋ひわたりなむ』という作者不詳の歌が採録されていて、粉浜の地名も登場する。

また中世以降紀州街道が開けたことに伴い、街道筋が発展した。
木津村から勝間村を経て粉浜に至る勝間街道も地域を通り、紀州街道のバイパス的な役割を担った。

鎌倉時代末期に住吉大社への献灯として建てられた日本最古の灯台。
現在の灯台は昭和49年に復元されたものです。
わが国最初の灯台として、鎌倉時代末の創建というが不詳。

もとは、現地から西約200mのところ(顕彰碑が立っている)にあったが、台風で倒壊したり道路工事で撤去されるなどで当地へ移築された。
当時は海岸近くにあたり、点灯すると十分灯台の役目を果たしたという。

住吉公園へのアクセス行き方歩き方

南海本線 住吉大社駅西側すぐ。
阪堺電気軌道 住吉鳥居前・住吉各停留所下車。
大阪市営バス 住吉公園停留所下車。

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