九州の小京都 飫肥散策

九州

飫肥城を中心とした飫肥藩5万7000石の旧城下町で「九州の小京都」とも称されるが高速道路もなくかなり辺鄙な町だ。

途中、道の駅 おおすみ弥五郎伝説の里でトイレ休憩、大隅半島曽於郡を縦断する国道269号沿い、 岩川市街地近くに位置し、町に入ると高さ15メートルの銅像が目に飛び込んできます。

曽於市大隅町は,巨人伝説の「弥五郎どん」で知られるが弥五郎どんとはなにものか、諸説あるが。

養老4(720)年に起った隼人の乱の時の隼人族の首長であった人物だ。

この頃、南九州は日向といわれた隼人族の地であったが奈良の大和朝廷は日向を薩摩と大隅に分割し支配の強化を計ったのである。

その分割統治、支配強化に対して反乱した隼人族は大和朝廷の圧倒的な兵力の前に力尽き、大勢の犠牲者を出したという。

大和朝廷は隼人族の怨霊を恐れ石清水八幡で放生会を行なわせその際に隼人族の首長の弥五郎どんの大きな人形をつくったといわれているそうだ。

ここの正面には、牛、豚、鶏が積み重なった不思議なモニュメントが有ります。

鹿児島を朝発ったのだが、目的地飫肥についたらもう昼だ。
今日のお昼はおび天蔵でいただいた。

江戸時代、飫肥藩の藩役所が置かれていたところで、明治6年、小村寿太郎の父・小村寛が総代人の『飫肥商社』が設立された場所でもある。

明治13年以降は「長倉」として利用されていたとのことだ。柱や梁も風格ある建物で、江戸時代から続く製法で『おび天』が作られている。

メニューはおび天を含んだ日南地方で古くから伝わる名物、カニ巻き汁厚焼玉子、どれも少々甘い、聞くとこの辺りは調理に黒砂糖を多く使うそうだ。

国際交流センター小村記念館
日本の近代外交の礎を築いた明治の外交官、小村寿太郎侯の遺徳を顕彰して没後80年を経て平成5年に開館した。

幕末の飫肥城下、飫肥藩士の長男でありながら、身分にとらわれず多くの人と接して育った小村寿太郎。

大学南校(東京開成学校 現・東京大学)からハーバード大学へ進学し、近代教育を学んでグローバルな世界観を身につけました。

外務省に入ると、明治日本の外交官として力を尽くします。

1904年(明治37年)日露戦争勃発。
日本は超大国ロシア相手によく戦っていましたが、アメリカのルーズベルト大統領が仲介に入り、戦争の終結を図ります。

1906年(明治39年)、寿太郎は講和首席全権としてポーツマス市に赴きました。
日露講和条約を締結したポーツマス会議です。

そこで寿太郎が国の未来のために選択し、命がけで決断したのは平和でした。
戦いは優勢に見えましたが、国の財政は苦しく、これ以上戦争を続けることはできない状態だったのです。

こうして結ばれた日露講和条約は日本に平和をもたらしました。
しかし、当時の国民からは「弱腰外交」とののしられ、日比谷焼き討ち事件が起こるなどしました。

寿太郎は一言の弁解もせず、後に飫肥に帰郷した時にこう語っています。「政治の難局に、我が身を忘れ国のために将来を思い、目的通り責任を果たした」。

このとき、ふるさとに帰った寿太郎を2万人の人々が歓迎し、提灯行列などでもてなしました。そして、これからの自分たちがどうすべきかを口々に問いかけたといいます。

日露戦争を終結させたポーツマス会議で日本の平和を、幕末に日本が欧米列強と結んだ不平等条約の改正によって、日本の世界的地位の確立を果たしたのです。

旧伊東祐正家住宅
飫肥城跡の大手門すぐ近く、国際交流センター小村記念館の前に旧伊東祐正家住宅はあります。

この建物は明治初期に江戸時代の様式で建てられた純和風の建物です。
もともとは茅葺屋根だったそうですが昭和28年の改装の際に現在のように瓦屋根に変えられたそうです。

内部は公開されておらず外から眺めるだけです。

飫肥の町のほぼ中心を南北に抜ける通りが大手門通りで、その北端に大手門が建ち、その北側の台地が飫肥城址だ。

豫章館(よしょうかん)
明治2年に造られた藩主伊東家の住まいで、広い屋敷地に主屋や御数寄屋・雑舎・蔵を配し、入口には薬医門を構えている。

飫肥城下では最も格式のある武家屋敷である。

南面一帯は武学流の作庭といわれる庭園で、広い空間に庭石や石灯籠・庭木などが巧みに配置され、閑静な佇まいの枯山水式庭園である。

伊東家の家臣伊東主水(もんど)(御三家)の屋敷だったこの地に、明治2年、飫肥第14代藩主伊東祐帰(すけより)が飫肥藩知事に任命されて城内より移り住みました。

南側の庭園は、規模と手入れの良さでは九州でも有数のものです。

武家屋敷通り
飫肥城北側は、整備された道路沿いの石垣と土塀で囲まれた武家屋敷跡、飫肥武家屋敷の典型とされる旧伊東伝左右衛門家・小村寿太郎生家など江戸時代の武家屋敷の風情を忍ばせる。

小村寿太郎生家
日本を代表する明治の外交官小村寿太郎は、飫肥城下の町役人の長男として現在の生誕碑の場所で生まれた。

その後、小村家が破産したため、明治時代後期に、生家は振徳堂裏に移築、さらに大正10年に現在地に移築されたものである。

旧伊東伝左衛門家、飫肥藩上級家臣の武家屋敷と庭園。

飫肥城下に残された武家屋敷で、19世紀初めの建築と推定され、幕末の城下絵図によると伊東伝左衛門家とある。

横馬場と八幡馬場に面した石垣や、枯山水の庭園とともに、飫肥の武家屋敷の典型である。

振徳堂
小村寿太郎が学んだ振徳堂。飫肥藩の藩校で天保2(1881)年に開設。安井息軒もここで教えました。

1831(天保2) 年、第31代飫肥藩主・伊東祐相により「振徳堂」と名付けられ再興した藩校で安井滄洲は総裁兼教授、息軒は助教に任命され、一家で飫肥城下に移住して教鞭を振るいました。

後に活躍する明治の外交官・小村寿太郎も、この振徳堂で学んだ一人です。

小村寿太郎誕生地
飫肥の中心部に小村寿太郎侯の生誕地碑があります。

碑面は元帥東郷平八郎の書で、裏面には小村の親友杉浦重剛のよせた詩文が銘してあります。

内容は、ポーツマス条約の仕上げとして清国との交渉に向かう小村に対して、小村の人柄を賞賛するとともに激励と日本人の期待を託したものです。

小村の家は、小禄十七石の徒士であった。

本町商人通り
大手門から大手門通りを南西に下ると商業地域に至る。

樽を店頭に置いたり、格子に壁燈籠や番傘を飾った商家などが軒を連ね、特に、電柱を廃した本町商人通りは、江戸時代を彷彿とさせる町並みである。

旧高橋源次郎家(きゅうたかはしげんじろうけ)は、飫肥城下町の町家筋である本町通りのほぼ中央に南面して立地している。

飫肥の実業家で貴族院議員高橋源次郎が建築した。
主屋の屋根は寄せ棟で飫肥地区において、それまで茅葺きであった民家が瓦葺きへ転換していく初期の建築としても価値が高い。

2010年(平成22年)9月10日、主屋や蔵等の5件が国の登録有形文化財(建造物)となった。

旧山本猪平家
明治の商人屋敷を今に伝える。

飫肥の豪商であった山本猪平が明治40年(1907)頃に建築した商家の本宅で、ほぼ建築当初のまま残されている。

内部も手入れがよく行き届いていて気持ちいい。

飫肥の商人屋敷を現代に伝える遺構として貴重なものである。

四半的(しはんまと)は飫肥藩に伝わる半弓で、射場から的まで四間半、弓矢ともに四尺五寸、的が四尺五寸、全て四半であることから四半的と呼びます。

泰平踊
江戸時代から伝わる郷土舞踊で、初めは町衆によって踊られていた盆踊りです。

宝永四年(1707)、対立していた鹿児島藩と和解したことを祝って武士にも盆踊りへの参加が許されました。

踊り手は元禄風の武士姿と奴姿で、踊りは武芸十八般をかたどった優雅さがただよいます。

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