京都盆地から大阪平野に通じる狭隘部で、桂川、宇治川、木津川の合流点東北の平野部に位置する。
京都府南部の乙訓地域最大の古墳である。
全長120m、後円部径60m、高さ8m、前方部幅55m、高さ6.5mを測る。
幅30mの周濠を持つ。
後円部が以前より墓地となっており、内部主体は失われているが、竪穴式石槨と推定されている。
1980年に墓地が他の墳丘部分へ拡張されることになり、長岡京市教育委員会が事前調査を行った。
古墳の周囲には幅約25mの浅い周濠(しゅうごう)があり、周濠を含めた古墳の全長は約180mに及びます。
すぐ近くまで住宅の開発の波が押し寄せています。
築かれた当時は斜面全体に石が葺(ふ)かれ、平らなところには埴輪(はにわ)が立て並べられていました。
古墳に葬られた人物の名前は記録に残っていませんが、古墳の大きさなどから少なくとも乙訓地域の全域を支配した実力者の墓であったと考えられます。
蓋形埴輪(きぬがさ がた はにわ)
これは蓋形埴輪。
「蓋」と書きますが「ふた」ではなく「きぬがさ」と読み、「きぬがさがたはにわ」です。
古墳時代中期の初め頃の古墳に見られるようになり、円筒埴輪・朝顔形埴輪ではない埴輪では最も早く登場します。
一見奇妙な形に見えますが、これは貴人にさしかける日よけのかさを表しているものです。
古墳より天王山方面を望む。
現在土木工事で復元されているのは、古墳が大幅に削られて形が変わってしまっているためですが、その改造を命じたのは明智光秀だったようです。
それは「天下分け目の天王山」として知られる山崎合戦のときのことで、恵解山古墳の上からは天王山の山麓と淀川に挟まれた山崎の狭隘部が真正面に見えるので、光秀はここに合戦の際の本陣をすえ、防御のために古墳を山城のような郭構造に改造しているらしいのです。
近年の発掘調査で古墳の天王山側(西側)に、このときに新たに深い濠を掘削して敵襲に備えていた様子が確認されており、また墳丘西面からは戦国時代の鉄砲弾が出土しています。
副葬品の大半は鉄製の武器類であり、直刀146、剣63、鉄鏃(てつぞく)472など総数700点余にも達した。
こうした副葬品埋納施設や大量の鉄製品は、全国的にみてもまれであり、古墳時代中期の様相を解明するうえできわめて重要な遺跡である。
81年、国の史跡に指定された。
公園整備で埋納土抗の位置には出土状況の実物大写真が設置された。
副葬品埋納施設の説明。
人のいる辺りが東つくりだし、マツリの場が設けられていたと考えらける。
前方部葺石の説明。
古墳の形状説明。
音国の古墳群地図。
恵解山古墳の説明。
後円部の上の木立は地元勝竜寺区の墓地で、木立の前後に墓石が並んでいるのが見えます。
事情を知らない人間が見ると墓地を取り除いて古墳を整備するのがよいと思う人がほとんどでしょう。
しかし、実は墓地は江戸時代から長い年月にわたって地域で大切にされてきたもので、恵解山古墳が現在まで破壊されなかったのもこの墓地が地元で大切にされてきたからなのです。
この墓地は古墳公園になった後もこのまま維持されます。
しかし、古墳の上の墓地の風景は異常です、何とかならないものかと思った次第です。
恵解山古墳へのアクセス、行き方歩き方
住所:京都府長岡京市勝竜寺30
電話:075-954-3557 長岡京市生涯学習課
JR東海道本線「長岡京駅」下車