下ツ道を行く 東の平田家訪問記

奈良県

江戸時代中期以降「八木の札の辻」界隈は、伊勢参りや大峯への参詣巡礼などで、特に賑わっていたと推測されています。

おふさ観音に行くのに八木駅前の観光案内所で道を訊ねたらこの道を教えられた。
なんとこの道は誰でも知っている下ツ道ではないか。

札の辻と呼ばれる場所は下ツ道と横大路の交差点なのだ。
その北東角が旧東の平田家、今は八木札の辻交流館として内部が公開されている。

下ツ道は7世紀中頃に、奈良盆地を南北に走る大道・下ツ道として整備された。

見瀬丸山古墳の前面を起点とし、藤原京の西四坊大路(現在の橿原市八木あたり)から、奈良盆地の中央をまっすぐ北へ進み、平城京の朱雀大路(現在の平城宮跡)に至る。

橿原市から大和郡山市にかけては、現在の国道24号の約250m西方に並行する。

奈良時代には飛鳥・藤原京と平城京をまっすぐ繋ぐ大道として盛んに利用されたと思われる。

しかし長岡京、平安京への遷都の後は衰退して維持されなくなった。
その道路敷は現在、一部で寺川などの河道に利用されている。

一方、横大路、神武天皇が墨坂の神に赤楯矛を、大坂(都市の大坂ではなく、二上山の北の峠)の神に黒楯矛を奉ったのは、両地を結ぶ横大路が初期大和朝廷にとって重要であったことを示しているとされる。

都が飛鳥、藤原京にあった時代には多くの外交使節も利用した。
江戸時代には伊勢神宮へのお蔭参りの参道として賑わった。

横大路は、東から、上ツ道(上街道)、太子道(筋違道)、中ツ道、下ツ道(中街道)、下街道等と交差する。太子道以外は奈良盆地を南北に貫いている。

『西国三十三所名所図会』の『八木札街』には中央に高札、現在も残存している六角形枠の井戸を中心とした町の賑わいを表現されています。

絵図には東の平田家と西の平田家が描かれており、どちらも南側が入母屋造で、2階街道筋に手摺りが回されている様相は、今もその面影をよく残しています。

絵図は1853年(嘉永6)に描かれているので、少なくともそれ以前からあった、と考えられます。

その六角形の井戸、半分に削られて道端に向かいに残されています。

平田家は古代大和の主要道路「下ツ道(しもつみち)」と「横大路(よこおおじ)」との交差点である「八木札の辻」を挟んで西側の平田家、東側の「平田家」が向かい合って立地し、いずれも江戸時代の旅籠(はたご)の風情(ふぜい)を残している建物です。

主に2階部分が客室として使われていました。
西側筋に4室、東側筋に2室と階段を含んだ板間があり、西側と南側の街道筋には欄干がめぐらせてあります。

この部屋は今でいえばスイートルーム、ビップのための部屋なのだ。

違い棚も特別に凝った細工がしてあります、大工が腕によりをかけて作りこんだものと思われる。

2階の窓からは「西の平田家」が見えます。

アスファルトや電線が邪魔してますが、今でも昔の街道筋の雰囲気があります。

2階の客室。

全ての部屋の欄間には 伊勢への街道であったからだろう、二見ヶ浦や伊勢の海を表す波や松林などが描かれている。

修理の際、天井板の一部がない部分が設けられており、屋根の構造がよくわかる。

休憩スペースにかけてあった、旅籠で使用していたであろう法被。

今回は交流館の親切なおばさんに隅から隅まで丁寧に説明いただき恐縮した。
無料で座ってお茶が飲めたりします、散策にどうぞ。

鬼瓦はカメ。

こちらはうさぎ。

札の辻から西へ二軒目南側の家(元郵便局)の軒瓦.
八木の子供は小学校の時の社会学習で必ずこの瓦を見せられます。

松尾芭蕉、本居宣長、吉田松陰など多くの人たちがこの街道を通過し「札の辻」に足跡を遺しています。

芭蕉はここで泊まり次の一句を詠んだと「笈(おい)の小文」の中で述べています。 

「草臥(くたびれ)て宿かる此(ころ)や藤の花」

本居宣長は『菅笠日記』の中で吉野からの帰途「札の辻」で、当麻に行こうか奈良見物をしようかと迷ったが、結局松阪に帰ったと記しています。

吉田松陰は私淑していた八木の儒学者谷三山に会いに萩からやってきてその後江戸に向かい、のちに安政の大獄で処刑されています。

河合家住宅、国の登録文化財。天保13年(1842)には「絞り油屋」を営んでいた。
安政6年(1859)北八木村の庄屋になり、両替商も兼ねていた。

今回はたまたま偶然に訪問したが改めて下ツ道をゆっくり散策してみようと思う。

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