今回、三井寺の紅葉を訪ねるのだが、実は三井寺は紅葉よりも桜の方が美しいのです。
データを消去してしまった時の記事に三井寺の桜の記事有ったので再掲しておく。
さざなみや 志賀の 都はあれにしを 昔ながらの山桜かな
平清盛の弟忠度が「平家物語」で詠んだ歌である。
三井寺の桜はおよそ一千余本。
四月はじめソメイヨシノや山桜が広大な境内を淡いピンク色に染める。
陽気に誘われて散策する姿は後をたたない。
琵琶湖疏水の取水口、日本人設計の日本最古の洋式閘門。
鉄の扉をハンドルで開閉する。
明治天皇も見に来られたので記念碑が立っている。
この地点から全長約12kmの運河を経て、琵琶湖の水を京都へ運んだ。
疎水の計画を具体化したのは京都府知事北垣国道である。
北垣は伊藤博文、松方正義、山田顕義らに請願し、明治十八年(1885)にようやく着工にこぎ付けた。
完成は明治二十三年(1890)のことであった。
「尾花川の街へ入る所に疏水の河口がある。
ここから運河が山へ入るまでの両側は枳殻(からたち)が連なっているので、秋になると、黄色な実が匂を強く放って私たちを喜ばせた…」。
琵琶湖疏水に架かる鹿関橋(かぜきばし)から疏水トンネルを望む。
疏水と横光利一(大津市)
大正末期から昭和にかけて活躍した小説家横光利一の随筆「覚書」に出てくる琵琶湖第一疏水の取水口付近の桜。
疎水はここから長いトンネルに入る。
第一トンネル洞門には開閉できる扉がついています。
明治29年の水害のときにつけられたそうだ。
洞門の石額は「気象万千」とあり、伊藤博文の揮毫。
国の史跡に指定されています。
長等神社
三井寺町にある。かつては新宮社と呼ばれた。
貞観2年(860)円珍が園城寺の守り神としてまつったといい、天喜2年(1054)庶民参詣のため山の上から現在地に移った。
『さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな』平忠度
この歌は、人麻呂歌をベースにして作られていますが万葉歌ではありません
「千載集」に読人知らずとして収められている歌です。
観音堂
西国三十三所巡礼第十四番札所である。
本尊は秘仏で33年に一度公開される。
三井寺の起源については、次のように伝承されている。
大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。
天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。
大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。
壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。
観月舞台
ひときわ目立つ舞台造の建物で、眼下には琵琶湖疏水と大津の町並みが広がり、琵琶湖の景観を望むことができる。
古来より観月の名所として知られてきた三井寺にふさわしい優美な建物。
全国に数ある鐘の中でも特に有名な鐘がここ三井寺には三つある。
その1 弁慶の引き摺り鐘
その2 音の三井寺
その3 童子因縁鐘
最後の一つは,観月堂の隣の鐘楼の鐘である。この鐘が,民話などの他,謡曲「三井寺」にも登場する鐘である。
謡曲「三井寺」は,人さらいに我が子を浚われた母親が,我が子に再会すべく夢枕に現れたお告げに従い三井寺に向かう。
そこで狂人のごとく鐘を撞くと,一人の若者が名乗り出て,探し求める我が子との再会を果たすというもの。
子を探す狂女のつく鐘の音はどのような音だったのであろうか。
また,この鐘は「童子因縁鐘」とも呼ばれる。
鐘の鋳造に際して寄進ができなかった村人が完成したら子供3人を差し出すという。
鐘ができあがるとき三人の子供の顔が鐘の表面に現れるとともに,村人の子供3人が息をひきとる。
観音堂の近くの物見台から大津の町と遠くは琵琶湖。
毘沙門堂は、もともと園城寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に元和二年(1616)に建立され、明治以降に三尾社の下に移築、戦後の修理に際して現在地に移りました。
内部には文様などが彩色で描かれており、桃山建築の系譜を受け継いでいます。
毘沙門道前の参道、桜が美しく咲いている。
晩秋は紅葉が見事だ。
「微妙寺」から「観音堂」に向かう参道の途中に「衆宝観音」がある。
「衆宝観音」は三十三観音の一つで、衆宝とは人が求める財宝のことである。
この観音を信仰すれば財宝がたまり、福徳を授けられ出世がかなうという。
「衆宝観音」の近くに「童観音菩薩」像が置かれている。
福々しい童子の感じがよくでた像である。
「微妙寺」は圓城寺五別所の一つで、正暦5年(994年)に慶祚大阿闍梨によって開基、本堂は安永5年(1776年)に再建されたとされている。本尊は十一面観世音菩薩で、病気、災難除け、減罪に霊験があらたかであるとされ、かつては参詣者が群れをなしたという。
比叡山との戦いを象徴するように、こうした高い石塀を見受ける。今でも、かっての争いの跡を思い知らされる。
「金堂」の前から参道を南の方向へ真っ直ぐ130m程進むと「村雲橋」がある。
智証大師がこの橋を渡っているとき、中国の青龍寺が焼けているのを感知したので、大師が閼伽井の水を撒くと橋の下から村雲が湧き上がり、中国の方向へ飛んでいったという。翌年には青龍寺から鎮火のお礼が来たという伝説がある。
「村雲橋」脇には紅しだれが美しく咲く。
唐院(重要文化財)
灌頂堂、大師御廟所、長日護摩堂、三重塔があり、寺内で最も重要な場所である。
智証大師が入唐してもたらした経巻や法具などが納められた所で、伝法灌頂の道場として神聖な区域である。
一切経蔵は一切経を安置するための堂で、内部には一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵が備えられている。
三重塔
慶長二年(1597)、豊臣秀吉によって伏見城に移築された大和の比蘇寺の塔を慶長五年に徳川家康が三井寺に寄進したもの。
一層目の須弥壇には、木造・釈迦三尊像が安置されている。
軒深く、三重の釣合よく、相輪の水煙などに中世仏塔の風格をよく伝えている。
古く錆び付いた鉄鍋は、おそらく大人数のための炊き出しなどに使われたものと思われるが、その巨大さが怪力無双の弁慶と結びつき、後世に伝えられていったのだろう。
大津絵の『弁慶の汁鍋』は、その実際の鉄鍋から生まれた画題。
弁慶の引き摺り鐘
この鐘は、俵藤太秀郷が龍神に頼まれて、大ムカデを退治したお礼にもらった鐘を三井寺へ寄付したものだという。
当時、比叡山と三井寺とで争いが起こり、弁慶がこの鐘を分捕って比叡山まで引き摺って帰ったが、撞いてみても音が出ず、イノー、イノーと鳴った。
怒った弁慶がイニたければイネと谷底へ投げ捨てたのを、後に三井寺へ戻された、という話である。
堂内では、上記の逸話がテープで繰り返し流されている。
「閼伽井屋(あかいや)の三井の霊泉」と呼ばれるこの霊泉を取り囲むように、「日本最古の庭園」と記される「閼伽井石庭」がある。
ごく小さな庭だが、いまでいう日本庭園の石組みが配されている。
石庭は、豊臣秀吉の正室だった北政所によって建てられた閼伽井屋の建物に隠れてあまり目立たず、案内板がなければ見過ごしてしまいそうなほどに小さい。
「閼伽井屋」の正面上部に左甚五郎の作と伝えられている「龍の彫刻」がある。
この龍は夜になると琵琶湖に出て暴れたため、甚五郎が自ら龍の目玉に釘を打ち込み鎮めたという伝説があるらしい。
三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に御産湯に用いられたという霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを後に智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。
現在、金堂西側にある「閼伽井屋」から湧き出ている清水が御井そのものとされています。
相模坊と天狗杉
金堂の向かいには天狗杉と呼ばれる樹齢千年と伝えられる樹高約20メートルの老杉がある。
室町時代の初め、相模坊道了という僧が勧学院書院で密教の修行をしていたとき、ある夜、突如として天狗となり書院の窓から飛び出し、この杉の上に止まり、やがて朝になるや東の空に向かって飛び去った。
道了ははるか小田原(神奈川県)まで飛び、降りたところが大雄山最乗寺であったという。
道了は五百人力と称され、験徳著しく村人から慕われ、最乗寺の道了尊堂に祀られている。
また、道了の修行していた勧学院には「天狗の間」があり、いまも最乗寺では道了尊を偲び当寺に参詣されている。
現存の「金堂」は慶長4年(1599年)に豊臣秀吉の夫人北政所によって建てられたといわれており、桃山時代の特色がよくでている代表的な名建築として知られている。
単に見た感じからも、風格があり優美で印象的である。
鐘楼 重要文化財
「三井の梵鐘」としてその荘厳な音色は有名。
日本三名鐘の一つ。
金堂の敷地内にあり、三井の晩鐘で世に知られ、近江八景のひとつである。
平等院、神護寺と共に日本三銘鐘のひとつに数えられ、音色で有名である。
慶長七年、准三宮道澄が弁慶の引摺鐘を模鋳したものである。
三井寺中院の表門で、東面して建ち、両脇の仁王像が山内を守護している。
記録によると、天台宗の古刹常楽寺(湖南市石部町)の門で、後に秀吉によって伏見に移され、慶長六年(1601)に家康によって現在地に建てられたとしている。
門に安置されている金剛力士像は運慶の作とされている。
三井寺へのアクセス、行き方歩き方
京阪石山坂本線
三井寺駅より徒歩10分
別所駅より徒歩12分
・JR東海道本線(琵琶湖線)大津駅
→京阪バス三井寺下車すぐ
・JR湖西線大津京駅
→京阪バス三井寺下車すぐ