神亀元年(724年)2月に即位した23歳の聖武天皇は、同年10月に和歌の浦に行幸、雑賀野に離宮を営んだ。
神亀元年(724年)2月に即位した23歳の聖武天皇は、同年10月に和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発する。
これが玉津嶋の初見である。この時同行した奈良時代の歌人山部赤人の詠んだ歌
わかの浦に 潮満ち来れば潟を無(な)み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る 巻6-919は有名。
大正6年(1917年)、鹽竈神社は玉津島神社の祓所から神社になった。
海産物、安産の神として信仰されてきた神社で、神体の塩槌翁尊は輿の窟という岩穴に鎮座する。
玉津島神社の社伝によれば、仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まるという。
玉津島は古くは「玉出島」とも称されたが、大阪市西成区玉出には生根神社が鎮座しており、関係があるのか興味深い。
玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行いかむ 見ぬ人のため
巻7-1222 作者不詳
玉津島は見ても飽きることがない、どのようにして包んで持って行こうか。まだ見たことのない人のために。
犬養孝先生揮毫の万葉歌碑。
山部赤人が人亀元年(724)聖武天皇行幸の際に玉津島神社を詠んだとされる。
やすみしし わご大王の 常宮(とこみや)と 仕へまつれる雑賀(さいか)野ゆ
背向(そがひ)に見ゆる沖つ島 清き渚に 風吹けば白波騒き
潮干(ふ)れば玉藻刈りつつ 神代より然(しか)ぞ貴き 玉津島山
巻9-917
反歌二首
沖つ島 荒磯(ありそ)の玉藻潮干(しほひ)満ち い隠りゆかば思ほえむかも
巻9-918
わかの浦に 潮満ち来れば潟を無(な)み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る
巻6-919
和歌浦にある船頭山、妙見山、雲蓋山、奠供山、鏡山、妹背山の六つの山は、その昔は小島だったようでそれらの小島をみんな、玉津島山と呼んでいたようだ。
当時は島山があたかも玉のように海中に点在していたと思われる。
本殿の背後というか、玉津島神社の本殿のある「奠供山(てんぐやま)」に小雨をついて登る!
「望海楼遺跡碑」があります!765年の称徳天皇の行幸の際、奠供山の南麓に「望海楼」が営まれて七日間滞在したとされます。
片男波の砂嘴が小雨にけぶる。
奠供山の山頂からは北西に友が島、淡路島、南には眼下に、和歌浦湾に延びる片男波の砂嘴に抱かれた入江が眺められる。
しかし、今日は小雨のせいで眺望はよくない、砂嘴の先には遥か彼方、有馬皇子悲劇の藤白坂がある。
三断橋と妹背山。
妹背山が干潟に浮かんでいる。遠く紀三井寺も望める風光明媚の地だ。
観海閣は和歌浦を愛した頼宣が建てたとされる水上楼閣、頼宣がこの楼閣から紀三井寺を遥拝したとも伝えられています。
入り江に浮かぶ船や名草山の端にかかる月を眺める絶好の場所として、現在も多くの人々に親しまれています。
不老橋、玉津島神社向かい側の橋。
紀州藩主徳川治宝が1851年(嘉永4)に造らせた当時としては珍しい石組みのアーチ橋。
徳川家が紀州東照宮に参拝する際におなり橋として渡っていた。
和歌川河口、南東に延びる砂嘴は、名前の由来が万葉集の、「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」(山部赤人)
の「潟を無み」にちなんでいると言われています。
今は公演として整備され、片男波公園万葉館がある。
入り口付近に描かれた都から和歌山県新宮市三輪崎まで一周すると”紀伊万葉歌”を絵地図上で訪ねることができる。
シアター内後方のパネルで、紀伊万葉にゆかりのある歌人13名を紹介している。
江戸時代後期の和学者・橘千蔭(たちばなのちかげ。1735〈享保20〉~1808〈文化5〉)
『万葉集』を研究する者にとって、橘千蔭の名は、その注釈書『万葉集略解(まんようしゅうりゃくげ)』とともに大変親しいもの。
一方、江戸から明治にかけての書道史においても、千蔭は見逃すことのできない存在。
千蔭は、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)を祖とする滝本流の書を慕い、流麗な千蔭流を打ち立てた。
千蔭流は江戸時代後期に大流行します。樋口一葉もこの流れを汲みます。
建物1階外側にある山部赤人の玉津島讃歌三首を万葉仮名で表記した陶板がある。
哲学者梅原猛氏揮毫、音声ボタンを押すと俳優・柴俊夫氏が万葉歌を呼んでくれる。
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