昨日に続き今日もウォーキングです。
連休のメジャーでない観光地は人も車も少なく快適です。
最初に訪れたのは藤原京跡、醍醐池ももう少し早い時期に来れば満開の桜が見られたのに。
690年(持統4)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8)に遷都した。
完成は遷都後10年経過の704年(慶雲元)と言われ、着工時期は676年(天武5)に始められていた。
藤原京の名称は近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には登場しない。
日本書紀を読み返すと、持統天皇の条に「高市皇子、藤原の宮地を観す」や「天皇、藤原に幸して宮地を観す」とあり、宮のある地名が「藤原」であったと分かります。
万葉集の中に「藤原宮の御井の歌」と歌があり、その歌の中に「藤井が原」もしくは「藤原」という地名が出てきます。
これが由来となっているそうです。
田中琢さん(元奈良国立文化財研究所所長)編の『古都発掘 藤原京と平城京』では、「都市名はなかった?」(小題)とあり、「藤原宮は歴史的に由緒ある固有名詞であるのに対して、藤原京のほうは、実は歴史家喜田貞吉さんが作った名前なのです。」とありました。
大極殿院閤門は大極殿院と朝堂院を区切る門。
正面約30m側面約25m有ったと推定されている巨大な建物である。
赤い列柱はこの大極殿院閤門跡を視覚的に示すため設置されている。
最近の研究では、都市の範囲が東西約5.3キロ、南北約4.8キロで、大和三山がすっぽりと入ってしまう広大なものであったということです。
左に見えている山は天香久山。
天香久山は太古の時代には多武峰から続く山裾の部分にあたり、その後の浸食作用で失われなかった残り部分といわれている。
山というよりは小高い丘の印象であるが、古代から「天」という尊称が付くほど三山のうち最も神聖視された。
こんもりと繁った森の辺りに大極殿があった。
正面に見えている山が耳成山。
藤原京の欠点は、宮殿のある北(正面の耳成山の方面)が低湿地だったと言われる。
水の供給量が少なく、水がよどみます。
都城を造るとなると、その中に多くの人が定住するわけで、どうしても排水が問題になる。
このことを藤原京に住んでみて、はじめて分かったのだと思います。
そして藤原京わずか16年で廃都となった。
天皇の外戚となって絶大な権勢を手中に収めたい藤原不比等にとっては、己の孫である首皇子(聖武天皇)を確実に即位させることが悲願であった。
首皇子即位に向けての基盤を盤石にする必要があった。
その為には必ず障害となる皇親勢力に藤原氏の権勢を誇示し畏怖させる必要があった。
遷都はそのための最良の策であった。
従って都市問題の深刻化や長安城との大きな齟齬は不比等にとっては千載一遇の好機であった。
式内社で、天香山坐櫛真智命神社である。
大和三山の内、この天香久山だけが「天」の冠がついている。
天から降ってきたとの伝承があったのであろう。
持統天皇の歌
「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山」 (巻1-28)
柿本人麻呂の歌
「久方の 天の香具山 このゆふべ 霞たなびく 春立つらしも」 (巻10-1812)
波波迦の木
古事記によれば、この木の皮で香具山の雄鹿の骨を焼いて吉凶を占ったそうです
いばら科の木で、現在は朱桜(にはざくら)という木です。
うはみずざくら・こんごうざくら・かばざくら・かにわざくら等の別名があります。
参拝を済ませこれから香久山へ登ります。
低い山ですがほとんど直登で少し息が切れます。
天香久山からの地要望、正面の山は耳成山、右の方には二上山が見える。
遠くには葛城さん、金剛山が見える。
頂上の2座 向かって右が国常立命神社。
明治天皇遥拝所、どこを遥拝したのか?
前方は三輪山、その向こうは大津。
小生は三輪山を遥拝したと思うが、講師ははっきりとは言わなかったがどうも大津と言いたそうだった。
古代史は答えがなく、いろいろと考えられるところが面白い。
板蓋宮(いたぶきのみや)は、7世紀中葉に皇極天皇が営んだ皇居。
一般には飛鳥板蓋宮と呼称される。
奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられている。
板蓋宮は、645年6月12日に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。
この日、皇極天皇の眼前で大臣の次期後継者である蘇我入鹿が刺殺されるという凶行がなされ、これにより皇極天皇は同月14日に退位し、軽皇子(かるのみこ)が即位する(孝徳天皇)。
孝徳天皇は、難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に宮を置いた(いわゆる難波宮)。
左前方は甘樫の丘。
654年(白雉5)10月孝徳天皇が難波宮で没すると翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となった。
この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失した。
斉明天皇は川原宮へ遷った。
重祚してからの斉明天皇は誠に評判か悪い。
日本書紀の記述にもだぶれ心の・・・と表現されマリ、わけのわからない建造物をたくさん作り、民の心は離れた。
わけのわからないものの一つが両槻宮、斉明2年(656年)に造営された斉明天皇の離宮です。
『日本書記』によれば多武峰に垣を巡らして、2本の槻の樹のほとりに、楼観を建てたとあります。
またの名を「天宮」とも呼ばれていました。
その後、この宮は大宝2年(702年)にも修繕した記事が『続日本紀』にあり、40年以上にわたって維持されていたことがわかります。
この宮殿の候補地としては酒船石のある丘陵とする説もあるが、さらに上方の多武峰に考える説もあります。
この辺りの説には藤原鎌足、中大兄皇子の影もちらほら。
万葉のふるさと・奈良にふさわしい『万葉集』を中心とした古代文化に関する総合文化拠点として、国内外から多くの人たちが訪れ、楽しみ、学ぶことのできる機能と魅力を備えた「万葉文化館」。
万葉劇場(人形や映像などを用いて万葉の世界を紹介)又、中にある万葉劇場では額田王や柿本人麻呂のお話が万葉歌を交えた人形劇として上演されており、大変勉強になります。
敷地内で見つかった飛鳥池工房遺跡について遺物のレプリカなどで紹介している。
庭は木々の青が眩しく安らぎを覚える空間だ。
庭園のあちこちに万葉歌碑があり、遥か古代を偲びながら散策できる。
万葉文化館の玄関には「せんとくん」の姿も。
今日のお弁当は広い庭の片隅の木陰でいただくことにした。
藤原京から平城京への遷都は707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により遷都の詔が出された。
しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。
展示されている鴟尾(しび)のレプリカ。
高御座(たかみくら)、展示用で古代のものではなくはるか後世のものという。
第一次大極殿から遥か彼方に朱雀門が見える。
光芒を放つ金銅製「大棟中央飾り」、大屋根の鴟尾(しび)と鴟尾の間に飾られているもののレプリカ。
四周に巡る小壁にには四神・十二支が彩色されている。
これは青竜か。
第二次大極殿跡。
740年(天平12年)、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。
第二次大極殿跡から第一次大極殿を望む。
東区朝堂院の辺りを進む参加者。
独立行政法人奈良文化財研究所による発掘調査が進められていますが、広大な面積で調査を終えているのは3割です。
全部終わるにはまだ100年はかかると言われています。
学者によっては、木簡の保存のためには科学技術がもっと発達するまでこのままで置いておく方がベターと発言する人もあります。
敷地内を走る近鉄電車。
近鉄線の南北分断には賛否両論があるが、「車窓から朱雀門と大極殿の両方が見られるのは魅力」と言われているように、すでに「溶け込んでいる」ということなのだろう。
宮跡地下に鉄道を走らす案もあったようだが、地下に構造物を造る場合、地下水の変動で地中の木簡に悪影響が懸念され、高架にすると景観を損なう。
「成案を見いだせずにいる状態」(都市計画室)》ということだった。
宮跡はこれまで2度破壊の危機に見まわれました。
1961年には西南部に近鉄車庫の建設計画が持ち上がりましたが全国的な保存運動によって救われ、1963年に国道24号線のバイパス建設計画が持ち上がったときも、全国的な運動によって国道は迂回され、平城宮跡は再び破壊から守られました。
ほぼ全域が特別史跡に指定され、国有地として保存されています。
平城宮(内裏)は朱雀大路の北端に位置し、そこに朱雀門が設置された。
京域は東西約4.3キロメートル(外京を含めて6.3キロメートル)、南北約4.7キロメートル(北辺坊を除く)に及ぶ。
南に延びる朱雀大路。
桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都を決めた理由の一つに、平城京の地理的条件と用水インフラの不便さがあった。
平城京は大きな川から離れているため、大量輸送できる大きな船が使えず、食料などを効率的に運ぶことが困難であった。
比較的小さな川は流れていたが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになっていた。
しかし、水がほとんど流れないため汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していた。
784年に長岡京に遷都するまで、平城京は74年にわたり首都として機能し続けました。
山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
いくらでもある謎の数々。
〇なぜ入鹿が悪人で中大兄らが英雄なのか?
〇舒明天皇の後、なぜ皇極天皇なのか?
〇大化の改新後、なぜ孝徳天皇なのか?
〇孝徳天皇の後、なぜもう一度斉明天皇なのか?
〇中大兄は斉明天皇の後、なぜすぐにそくいしなかったのか?
〇なぜ大津に遷都したのか・・・最近では飛鳥に入れなかったとの説が強い。
〇死因は本当に病死なのか?
〇天武後なぜ鸕野讚良は称制をひいたのか?
〇草壁皇子は何故即位しなかったのか?
〇大津皇子の謀反とは?
〇持統は何故不比等を登用したのか?神話にそっくりな持統と不比等の密約?
〇高市皇子はどうしていたのか?
最近では持統は不比等邸で即位したとの説もある。
古代史は今までタブーとされる部分が多かったが最近では徐々にではあるが新しい考え方が見られるようになり楽しみだ。
日本書紀は藤原氏による偽書だということがそのうち常識になるだろう。
知的好奇心を刺激してくれる話題の宝庫だ。
今日も2万歩歩いた。
楽しい一日だった。