この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。
画像は2013年3月30日訪問時のものです。
万代池の歴史ははっきりしないが、上町台地の浸食した谷をせき止めて作られたといわれている。「聖徳太子が曼陀羅経をあげて、池に棲む魔物を鎮めた」という言い伝えから、「まんだら池」が転じて万代池という名称になったと伝えられている。
閑静な住宅街に位置し、高級住宅地として知られる帝塚山に近接しており、桜の名所としても名高い。
緑と桜のコラボレーションが素晴らしい。
快適なウォーキングの道として住民に親しまれている。
閑静な環境から鳥たちの憩いの場ともなっている。
僅かな物音にもあわてて飛び立つ鳥。
こちらではサギが真剣にエサ採りの真っ最中。
ユキヤナギも群れて咲き彩りを添える。
万代池の周囲は約700メートル。
池の周囲をソメイヨシノが覆い尽くす。
万代池の成り立ちをみてみると、池の西端に熊野街道が接して通っていることから、上町台地の浸食台をせき止めてつくらせた池とされており、明治の中頃までは灌漑池として利用されていた。
その後宅地化が進むと同時にその利用形態も変わり、昭和の初めごろには共楽園という遊園地として、春や夏には大層にぎわっていたようである。
古代この地には大小の古墳がひしめきあっていた。今でも近くに帝塚山古墳が市内で唯一、前方後円墳の形のまま残っている位だ。
万代池も古墳で中の小島が古墳で、池が周濠だという話もあり、小島が貧弱なのは長年の間に波に浸食されたというのだろうか。
他に、上町台地の割れ目を塞いで池にしたという説もある。
帝塚山古墳は「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる大小二つの古墳があり5-6世紀の豪族、大伴 金村(おおとも の かなむら、生没年不詳)とその子の墓とされている。
小帝塚が前方後円墳の帝塚山古墳として現存している。
大帝塚の方は、現在の大阪市立住吉中学校の敷地となり、小帝塚の方が帝塚山古墳として現存している。
帝塚山古墳の規模は、現在は全長約88m・高さ約9mで、街中の北部高台にあり、すぐ隣まで民家が迫っている。
細井川は住吉区千躰(せんたい)から住吉大社の南を過ぎ、上町台地と我孫子台地の峡を穿ち、曲折する。
十三間堀川と通じ水運に用いられ、上住吉の浅沢神社前には船着場があったという。
やがて住吉川となり木津川に注ぐ。
両岸は見事な桜並木だ。
両岸の土手は快適なウォーキング道だ。
当日も数百人規模のウォーキングの集団が通り過ぎて行った。
住之江公園の大池。
水面に映る緑の木々、のんびりと泳ぐ水鳥たち…大池にかかる太鼓橋に立てば、ここには自然が息づいていることが実感できる。
大阪護国神社
昭和15年5月、仁徳天皇と明治時代以降の大阪府出身の戦没者を祭神として創建された。
有志が桜樹献木会を組織して桜・桐約千本を植えるなど約2万平方メートルの神域はうっそうと樹木が茂り、閑静なたたずまいを見せている。
春・秋の大祭のほか、毎年の盆三日間は域内に3千個のちょうちんを灯し、祭神の霊を慰めている。
当日も「同期の桜を歌う会」が催されていた。
独り言
平安時代以降は息を潜めていた百済王族・藤原氏が、明治維新によって再び息を吹き返したわけで嘆かわしいことだ。
大友氏もその藤原と死闘を繰り返し敗れ去ったのだ。
大友氏の略歴を記しておく。
大伴金村とは、第二十五代武烈天皇時代の大連(むらじ)で、武烈天皇に子孫がいなくなったので、応神天皇の五世の孫といわれる人を越前から連れてきて、継体天皇にしたという、古代史の仕掛人の一人である。
しかし継体天皇は皇位についても二十年間、大和に入れなかったというから、金村の強引なやり方に反感を持つ氏族の連合が強力であったとうかがえる。
晩年は大伴氏の館のあった摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)に住み、そこで死去。
奈良県葛城市には、金村を祀る金村神社がある。
雄略天皇の時代の5世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈天皇の代に孫の大伴金村(かなむら)が大連になった時が全盛期であった。
金村は継体天皇を迎え入れた功績があり、また任那の運営を任されており、武烈、継体、安閑、宣化、欽明の5代にわたって大連を務めたが、欽明天皇の時代に百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚し、摂津国住吉郡(現大阪市住吉区帝塚山)の邸宅に篭る。
以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入る。
飛鳥時代から奈良時代
しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、飛鳥時代の大化の改新の後、649年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっている。
また、672年の壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てており、以後、奈良時代までの政界で大納言・中納言・参議等が輩出している。
また、大伴安麻呂、大伴旅人、大伴家持、大伴坂上郎女などといった歌人を多く世に出している。
遣唐使に大伴古麻呂などがあり、彼は鑑真を日本に密航させた。
政争への関与と衰退
大伴氏は奈良時代の政争に関わる事が多く、長屋王の変では長屋王と親しかった旅人は事件前後に一時的に大宰府に左遷された程度で済んだが、橘奈良麻呂(橘諸兄の息子)の変では古麻呂は拷問死、大伴古慈悲は流罪(称徳天皇崩御後に復帰)に処された。
この事件には家持は関与していなかったが、後に藤原仲麻呂の暗殺計画に関わっていたとされ、左遷される。
その後、壬申の乱で擁立した天武天皇とは別系統の桓武天皇が即位すると、今度は氷上川継の乱への関与を疑われて、再び左遷されてしまう。
それでも彼は783年に中納言に昇進したが、翌年長岡京への遷都を桓武天皇は実行する。
大伴氏はこの政策に不満を持っており、指揮していた藤原種継を暗殺する事件を起こす。
結果、古麻呂の子で首謀者とされた大伴継人は死刑、直前に死去していた家持は除名、それぞれ継人・家持の子である伴国道・大伴永主は流罪となる。
しかし、それでもまだ完全に衰退したわけではなく、平安時代初期の桓武朝においても、大伴弟麻呂は初代征夷大将軍となって坂上田村麻呂と共に蝦夷を討ち、後期の803年には国道が赦されて帰京し、参議に昇進している。
彼の晩年の823年には淳和天皇(大伴親王)の名を避けて伴(とも)と氏を改める。
その後、清和天皇朝に国道の子、伴善男(とものよしお)が頭角を現し、864年に久々に大納言を出すが886年に源信の失脚を図った応天門の変に絡んでいることが判明し(宮廷から他氏族を排除する目的で行われた藤原氏による陰謀説が有力である)、伊豆に流罪になる。
これは結果的に政争に幾度か関わりながらも、由緒ある貴族として命脈を保ってきた伴氏に打撃を与える事となる。
その後
939年には伴保平が参議となり、久々に公卿が出たが、既に72歳の高齢で、950年に引退して以降は公卿は出なくなる。
平安時代前期には、紀氏と並んで武人の故実を伝える家とされたが、武士の擡頭とともに伴氏は歴史の表舞台から姿を消していく事となり、その後は伴忠国が鶴岡八幡宮初代神主となって以降、その社職を継承しながら血筋を伝えていく事となる。受領(国司)から地方に土着し、武士団化した氏族も各地に残っている。
源頼義、義家に仕えた大伴員季や伴助兼は代表的な例である。
(古代〉住吉には、海を支配する豪族がいたに帝塚山古墳発掘時のことが記されている。
また『摂津名所図会』に帝塚山古墳に関する記述があるので抜粋しておく。
鷲住王塚(わしすみのおほきみのつか) 住吉より五町ばかり北、街道の東にあり
大伴金村塚(おほとものかなむちのつか) 同所にあり。
土人この両塚を帝塚山といふ。
また手支山(てづかやま)とも呼んで、諺に、むかし住吉神と聖徳太子と地を争ひたまふて、ここにて手をつかへ領地を定めたまふたりとぞ。
これ妄談にして取るに足らず。
この所一堆の岡山にして、西は滄溟渺々(そうめいびょうびょう)とし、南は岸姫・住吉の杜頭、北は天王寺の[山業]々(ぎょうぎょう)たる梵刹連なり、東は阿部野の隴々たる風景柄然し。
弥生の頃は近隣ここに来って游宴の地とす。
鷲住の旧蹟に住吉の下にあり。
金村の旧宅は、堺北荘高州浜の東なり。
この人詔をうけて真鳥を滅ぼし、武烈帝崩じて皇嗣なし。
大跡王を趣前国三国より迎へて皇胤(こういん)を立つ。
欽明帝元年退いて住吉の第に居す。
金村の子大伴狭手彦(おほともさてひこ)は詔を承けて兵士数万を将ゐて高麗を改むる。
つひに国中を平治して大いに功あり。