一乗山大伝法院根来寺

和歌山県
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大門
根來一山の総門で嘉永3年(1850年)に再建されたもので、左右に仁王像を配し、この寺にふさわしい大門です。

上層には釈迦三尊と十六羅漢像が安置されています。
高さ16.88m 横幅17.63m 奥行6m

入り口にたくさんの無縁仏群があります。

永禄の年号が刻まれたお地蔵さんもおられました。秀吉の根来攻め以前の石仏です。

平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧といわれた覚鑁が大治5年(1130年)に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。

鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護した。2年後の長承元年(1132年)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院(みつごんいん)を建立した。

さらに2年後の長承3年(1134年)、覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。

大伝法堂(三尊像)
根来寺を総括した本堂。

中央に大日如来、左脇に金剛薩た、右脇に尊勝仏頂尊を安置してあります。

このお堂は、天正十三年に焼失を免れた直後に、秀吉は京都紫野大徳寺の文蔵主に管理を任せたのですが、どう間違ったものか文蔵主は拝領したものと思い、大傳法堂を解体して紀の川を下り海路淀川をさかのぼりはじめたところで差止められ、文蔵主は罰せられて流罪となりお堂の用材はその場に全部荷揚げしてそのまま朽ち果ててしまいました。

今の淀川河口の伝法町がその場所といわれています。
現在のお堂は文政十年(1827年)に再建されたものであります。

大塔(多宝大塔) – 国宝。

高さ40メートル、幅15メートルの日本最大の多宝塔。

「多宝塔」とは二層一階建ての塔で、通例、初層(裳階)の平面が方形、上層が円形に造られる。

この塔も、初層の外見は方形だが、初層内部には円形の内陣が造られており、円筒形の塔身の周囲に庇を付した、多宝塔本来の形式をとどめている。

内部には12本の柱が円形に立ち、そのなかに四天柱が立っている。

覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。

保延6年(1140年)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件が発生。

覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。

室町時代末期の最盛期には坊舎450(一説には2,700とも)を数え一大宗教都市を形成し、寺領72万石を数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団を擁した。

また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が作られた。

織田信長とは石山合戦に協力するなど友好関係を築いたが、信長没後、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いにおいて徳川方に通じ留守の岸和田城を襲ったほか南摂津への侵攻を図ったことで秀吉の雑賀攻めを招くこととなった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川方が勝利した翌年、家康は東山の豊国神社の付属寺院の土地建物を根来寺の僧で焼き討ちされた塔頭智積院の住職であった玄宥に与え、智積院は東山の地に再興した。

慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家が滅びた後、家康によって秀吉が鶴松を弔うために建立した祥雲寺が根来寺に寄進されるが、そのまま智積院が譲り受けて寺地を拡大させた。

閼伽井(あかい)

仏にお供えする水の他、宗門僧侶の水垢離(みずごり)用として使用される。この水は当山中第一の清水で、永雨で河川がにごっても、この水はにごらない。
しかも非常に冷たい水であり、依って金剛清水と呼ばれている。

鐘楼門
鐘楼が付いた門、毎日、午前6:00に鐘を鳴らしています。

名勝聖天池に浮かぶ堂は聖天堂で聖天尊を安置している。

この堂正面の朱塗の壇が有名な「根来塗」で古くから伝わっているものです。

九社明神

根來寺の草創当時から豊福寺の鎮守社。
丹生大明神(にう)・
高野大明神(こうや)・
伊太祁曽大明神(いたきそ)・
御船三所大明神(みふねさんしょ)・
金折六所大明神(かなおりろくしょ)・
金峯山金剛蔵王(きんぷせんこんごうざおう)・
熊野三所権現(くまのさんしょごんげん)・
白山妙理権現(はくさんみょうりごんげん)・
牛頭天王八王子(ごずてんのうはちおうじ)を祀っています。

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