愛媛県新居浜市の別子銅山は、住友財閥の基礎を作ったことで知られ日本三大銅山(あと2つは足尾銅山と日立銅山)と呼ばれるほどの規模を誇りましたが、昭和48年に閉山となりました。
最後の採鉱本部が置かれていた端出場(はでば)地区を開発した端出場ゾーンの紹介です。
1991年(平成3年)に作られた端出場大橋、県道に沿った芦谷川の川向こうに建設されたテーマパーク「マイントピア別子」へのアクセス用として作られた橋。
紅葉もかなり進んでいます。
マイントピア別子の本館は当時の建物を意識した、赤煉瓦が基調のデザイン。
内部には食堂や土産屋、銅山の展示コーナーがあり、一番上の4階が温泉になっている。
出発は、本館2Fの「端出場駅」から、鉱山鉄道「別子1号」に乗車。
「マイントピア別子」の端出場駅と観光坑道に近い打除駅を結ぶトロッコ列車。発車するとすぐにトンネルに入る。
今、冬桜が花盛り、花期は春と秋に2回(たまに4回)。
春は他の桜と同様に7~10日間咲いており、秋は、11月中旬から2月初旬までで、花の咲いている期間が長いのが特徴(別名四季桜又は十月桜)である。
終点の打除駅を降りると、歩いて橋を渡り、端出場坑道へ、観光坑道は、別子銅山の旧火薬庫を利用した坑道で、江戸時代の様子を再現した「江戸ゾーン」、別子銅山の近代史を学べる「近代ゾーン」のほか、地下1,000mの疑似体験ができる。
橋の途中の橋の上から渓流を望む、伊予青石が基岩になっている。
長さ333mの観光坑道は、旧火薬庫を利用して作られた。
江戸時代から近代までの別子銅山が楽しめる。
歓喜抗は、1691年に開かれた別子銅山最初の坑道。
人々がこの将来有望な坑道の前で、前途を祝して、抱き合って歓喜したことから名付けられたという。
負夫(おいふ)と掘子(ほりこ)、背に葛で編んだ篭を背負った運搬夫(負夫)と採鉱夫(掘子)は、サザエの貝殻で作った「明かり取り」を手にして坑内に入った。
掘場(つぼ)、採鉱は主に槌(つち)と鑿(のみ)を使って、手作業で行われた。
湧水の引揚げ、鉱石を採ると石の目を伝わって水が溜まり、採鉱が難しくなる。
そこで、湧水を昼も夜も坑外へくみ出す作業が行われた。
体験用の装置があるがかなり重い。
坑口と風呂場、別子銅山では、歓喜坑を出るとすぐに共同浴場があり、便利に作られていた。
砕女小屋(かなめごや)、運び出された鉱石は、男が大割した後、砕女(かなめ)と呼ばれる女性たちによって、金槌(かなづち)で3㎝角位くらいの大きさに砕かれ、色の濃淡によって選別される。
仲持、元禄4年(1691年)の別子銅山の開坑以来明治13年に牛車道が開設されるまで、奥深い銅山で精錬した粗銅や山中での生活物資(男性は45キロ、女性は30キロ)を背負って、険しい山道を運搬した人達。
粗銅改め(あらどうあらため)、山で作られた粗銅は、山役人の立会いのもとに、重量が測られた。
当時、銅山税として、生産量の13%が幕府に納められた。
この動く巨大ジオラマは、別子銅山(旧別子・東平・端出場)の明治から昭和の模様を一か所に集約したもの。
散り紅葉の中を端出場駅からの鉱山鉄道「別子1号」が到着。
明治26年に開通した別子鉱山鉄道の蒸気機関車「別子1号」を一回り小さくして復元。
端出場記念館から観光坑道までの約400mの距離を時速10kmのスピードでのんびりと走って行きます。
途中には鉄道開通時に建設された当時のままの「端出場随道・端出場鉄橋」を通過します。
この鉄橋は明治26年(1893)に架設されたものでドイツのハ一コート社のピントラス橋で、溶接などせずピンのみで留められた非常に珍しい橋として現存しています。
散り紅葉に後ろ髪曳かれながらマイントピア別子を後にした。
マイントピア別子 端出場(はでば)ゾーンへのアクセス、行き方歩き方
新居浜市立川町707-3
0897-43-1801
JR新居浜駅からせとうちバスもしくは新居浜市運営のコミュニティバスに乗車。約15分。