のれんのかかる町 町並み保存地区 勝山

地域

勝山は三浦藩2万5千石の城下町である。
昭和60年に町並み保存地区に指定され、昔ながらの景観を今に伝えている。

古くは出雲街道の要衝として繁栄。土蔵はもちろん、白壁や格子窓の古い町並みが残ることから、昭和60年に岡山県初となる「町並み保存地区」に指定。

昔ながらの酒蔵に、旧家、武家屋敷といったノスタルジックな建物に加え、古民家、蔵などを活用した工房、カフェ、ギャラリーなどが軒を連ね、歩くだけでも楽しい趣をかもし出しています。

私たち観光客が歩いていると、地元の少年の方から「こんにちは」と気持ちが良い挨拶をしてくれます。
勝山高校の教師にそういう教育をしているのかと尋ねたら、挨拶をしろというようなことは一言も言っていないとのことでした。
商店のおばさんが町並みの説明をしてくれたり、町の人たちの感じがとてもよい町でした。

勝山は、かつて三浦藩の城下町で、出雲街道の宿場町さらには高瀬舟の旭川最北の発着場として賑わった町です。
現在も往時をほうふつとさせる町並みや史跡が、訪れる人を魅了し、そこに草木染めされたのれんがマッチした大変落ち着ける素敵な場所です。

家々の軒先にかかる草木染めののれんは新たな町のシンボル。
保存地区ののれん作りを一手に引き受けているのが、『ひのき草木染織工房』の草木染め作家・加納容子さんです。

実は私、容子さんとは同級生なんです。
先日40数年ぶりに再会を果たしたところです。

こんな石畳の道、その向こうの石段を登ると、安養寺に出ます。
東京にも三浦坂があります。
この辺りは谷中霊園に近く、 周囲には多くのお寺があります。

坂の由来としては美作国勝山藩主三浦氏の下屋敷があったことから、下屋敷前の坂道を三浦坂と呼んだことにはじまるといいます。
坂の中腹あたりには猫好きにはお馴染み、猫グッズのお店ねんねこ家などもあります。
坂の右手は墓地が続き、ちょっと狭くて急斜面。

【高瀬舟の終着地】
中世から近世にかけて、旭川は物資輸送の重要な交通路。
勝山はその最上流の舟着場で岡山まで16里(64キロ)を下り荷は鉄、木炭など、上り荷は塩、砂糖などの生活必需品を往復1週間の行程で運び、勝山の繁栄を支えていました。

昭和のはじめには鉄道開通に伴い姿を消しましたが、町裏には川沿いにのびる石畳が完全に残っており、高瀬舟発着場跡として往時を偲ばせます。

第ニ次大戦中には文豪谷崎潤一郎が疎開先として勝山を選び、名作「細雪」の下巻を書き上げました。
たぶんこの川端を散歩したのではないでしょうか。

街道が分かれるところに御前酒蔵元・レストラン西蔵(辻本店)があり、酒蔵見学とレストランでのお食事がお楽しめます。
「男はつらいよの最終話の最初の歌のシーンで出ています。」

旧三浦家別邸。
明和元年(1764)、三河国西尾より移封になり、勝山領主となった三浦氏は、明治2年、大政奉還により10代、107年間の歴史に幕を下ろしました。

歴代当主は、当時お城山の麓(現在の市役所あたり)に屋敷を構えていたものの、城地・建物などはすべて国有となったため、最後の城主、10代顕次(たかつぐ)が、地元庄屋の支援を受け構えた邸宅がコチラ。

以来3代にわたりこの地で過ごしましたが、平成元年2月、旧勝山町へこの土地を寄贈。

屋敷の正門前に、樹齢数百年とされる巨大な椎の木が立つことから別名「椎の木御殿」との呼び名で親しまれています。

現在は、敷地を一般開放。敷地内には地産地消をテーマにした料理を提供するお食事処「椎の木御殿」が併設されています。
神庭の滝からの帰りの食事に最適の場所。

旧真庭市役所の裏にある高田城三の丸遺跡です。
高田城(別名 勝山城)は、如意山に本の丸(山頂)と二の丸(山腹)を置き、勝山に出丸が置かれ、高田川(旭川)に面した現在の真庭市役所勝山支局付近に三の丸を配置している。
現在、二の丸は町民グランドとなっている。 

【武家屋敷館】
1764年、三河国西尾よりお国替えになった三浦明次は、勝山城を修築し、ここ旦に武家屋敷を建て家来を住まわせていた。

江戸時代に勝山藩が置かれていた頃は、この地区は百数十軒の武家屋敷が整然と並んでいました。
その中で、唯一、160石の家老格であった渡辺邸が名残をとどめています。
館内には武家に関する資料、当時の駕籠、武具、衣裳、道具などが展示されている。(Tel.0867-44-3909)

明徳寺境内にある石碑。
地元勝山の俳人・松毬庵里翠が文明11年、芭蕉翁没後121年に当たり、その遺風をしのび、翁の句を刻んだ碑を建てたといわれる。
この白菊塚の碑には、「しら菊の眼にたてて見る塵もなし はせお」と刻まれている。

紅葉で有名な滋賀県の永源寺の開祖

円応禅師は正応3年(1290)、勝山で生まれました。
その産湯を汲んだという井戸が、今も残っています。
円応禅師は13歳で出家、京都東福寺の無為昭元(ムイショウゲン)に師事、後に京を離れ、鎌倉で約翁徳倹(ヤクオウトッケン)の門に入ります。
そして31歳の時には中国に渡り、天目山の中峰明本(チュウホウミョウホン)につき修行、中峰から寂室の道号を与えられました。

帰国後は、世俗を離れ、中国地方を初め各地を遍歴、康安元年(1361)になってようやく、近江守護佐々木氏頼の招きにより、72歳で永源寺に入り、開山となりました。
その徳を慕って集まった修行僧は二千にものぼったということです。

寂室ゆかりの地勝山に元文二年(1737)、寂室を記念して明徳寺が建立されました。
昭和初年までは住職が居て小さいながらも一寺院の体裁を整えていたが現在は無住となっている。

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勝山への行き方歩き方

問い合わせ先
真庭市勝山支局 総務振興課 TEL:0867-44-2607
アクセス
中国自動車道落合ICより中国勝山方面に約17km
JR中国勝山駅より徒歩で約5分