こけしのまち鳴子は木地師のまち

東北

江戸末期文化文政(1800年代前半)の頃、木地師達が温泉みやげとして作った鳴子こけしは、今も昔ながらの技法で工人が一つ一つ手作りで作っています。

岩下こけし資料館には豊臣秀吉の免許状 ・織田信長の免許状 ・木地師免許書などが展示される。

秀吉の免許状は、秀吉の五奉行増右ェ門長盛の発行した御免状。
天正15年11月15日ロクロ師を保護するためだされました秀吉の免状と言われております。

もともと木地師は良質の木材を求めて移動するため定住することはない漂泊の山の民であった。
しかし明治を迎えると国はその暮らし方を認めず、木地師たちは放浪をやめて定住するようになった。

奥羽山脈にいた木地師たちも、やがてこけし職人として山麓の集落に居を定めたのだろう。

漆器は江戸時代寛永の頃(1624年~1643年)に創始されたと伝えられている。

安永2年(1773年)「鳴子風土記書出」に塗物、はし、楊枝等が記載されており、鳴子温泉地域の主要産物として、また、文化2年(1805年)「漆出来記」に漆採取の記録も残っています。

鳴子漆器の特徴は、挽物木地の塗立て技術にある。
塗りは木目を生かした木地呂塗りやふき漆仕上げ、また、独特の墨流しの技法の竜文塗があり、しっとりとした美しさがあります。

鳴子の「こけし通り」

伝説には、木地師の祖は惟喬親王に遡る。
文徳天皇の皇子である惟喬親王が近江国小椋谷(おぐらだに)に隠棲していた際に、その木工技術を伝授したのが創始という。

これが史実かは別として、木地師と呼ばれる職人集団がこの伝説を携えて各地を渡り歩いていたことは事実であり、近江にいた木地師たちは、その後北陸から、四国、九州、そして関東、東北に広がったとされる。

綱引きロクロ(二人引きロクロ)
文化文政(1800年頃)~明治中期(1890年頃)

綱の引き手とロクロの挽き手との呼吸がぴったり合う事が重要で、この綱をとるのには主に、木地屋の妻や弟子達の大切な役目となっていました。

木地師達は、お盆やお椀などを作る一方で、男の子には「独楽(こま)」を、女の子には「きぼこ(こけし)」などの木地玩具を作ってあげました。その後、それらは子供の玩具から大人のコレクションへと変化していったのです。

宮城県内には、「鳴子こけし」「作並こけし」「遠刈田こけし」「弥治郎こけし」「肘折こけし」の5つの伝統こけしがあり、系統作者により形・描彩にちがう特徴があります。

小さなこけしの頭が卵の容器に入れられていた、なかなかのアイデア。

「湯めぐり回廊」の前ではこけしが車道と歩道を分けるポールの役目を果たしている。

屋根にこけしを乗せたユニークな公衆電話。

こけしのできるまで
(1)原木の乾燥(木の皮をむいて 6ケ月~1年間自然乾燥させる)
(2)玉切り(寸法に合わせて原木を切る)
(3)木取り(木の余分な部分を切り取る)
(4)荒挽き、頭挽き、胴挽き(ろくろを回転させて頭の部分、胴の部分を鉋で削る)
(5)磨き(サンドペーパー、とくさなどで磨く)
(6)さし込み、はめ込み(胴や頭をたたき込む)
(7)描彩(顔や胴の絵柄を描く)
(8)仕上げ(仕上げにロウをひく)

岩下こけし資料館前の特大こけし。

こけしのポスト。

JR鳴子温泉駅には電車の車掌のこけしが。

こけしの提灯です。
灯されたところが見たかった。

橋の欄干もこけし。

自動販売機もこけし。

泊ったホテルのキーホルダもこけしでした。

そして最後はマンホールの蓋。
何から何までこけしのまちでした。

伝統をまちぐるみで守ろうとする意気込みを感じた。

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鳴子温泉へのアクセス、行き方歩き方

鉄道:JR陸羽東線・鳴子温泉駅すぐ。
高速バス:仙台駅前からミヤコーバス・仙台 – 鳴子線で終点・車湯下車。