哲学の道は多くのインバウンドに埋め尽くされている。
桜はほぼ満開に近い。
満開の桜をにらみながら霊鑑寺へむかう。
「椿の寺」として知られる霊鑑寺は、承応3年(1654)、後水尾(ごみずのお)天皇の皇女・多利宮(たりのみや)を開基として創建され、歴代皇女が住職を務めた尼門跡寺院。
現在、椿の特別公開が行われている。
霊鑑寺で参拝客を真っ先に迎えてくれるのは、門をくぐってすぐ左正面目に姿を表す梅の古木と散椿の古木。
散りツバキで埋め尽くされた地面は真っ赤です。
庭園入口に設置された椿の花手水は、ピンクや白などのカラーで統一されており、思わずシャッターを切りたくなる可愛さ。
庭園内の小さな手水鉢にも椿が浮かべられています。
その先の玄関は、竹に色とりどり様々な品種の椿の花を活けた花あしらいが飾られています。
かつてここには樹齢400年と言われた日光(じっこう)という椿(京都市天然記念物)がありました。
残念ながら2015年に枯死して今はその姿は見られません。
枯死した日光椿は後水尾天皇も愛でたと伝わる古木椿です。
実物を見ることが叶わず、大変残念に思っている椿の一つですが3メートルほど離れた場所に生えている日光椿は、元の椿と根がつながっていたたので、市の指定天然記念物はこの日光に引き継がれることになったそうです。
無作為に綺麗そうなのをドンドン撮っていきます。
今年はちょうど桜の時期と重なり、桜と椿のトンネルをくぐりながら歩きます。
別名「谷の御所」と呼ばれた格式と清楚な佇まいを今に伝えています。
本堂は江戸幕府十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が寄進したもので、如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)を安置しています。
後水尾天皇が椿を好まれたことから、広い庭内には100種以上の椿が植えられており、日光(じっこう)椿(京都市指定天然記念物)をはじめ、散椿、白牡丹椿、舞鶴椿などが、色とりどりに咲き誇ります。
当寺は、そもそもは後陽成天皇の典侍であった持明院基子の隠居所であった。
その後、寛永20年(1643年)に基子の希望により後水尾上皇によって寺院に改修されることが決められ、翌正保元年(1644年)には上皇の娘である宗澄女王が入り、寺院化が進められた。
承応3年(1654年)5月に霊鑑寺と寺名が付けられると、女王は得度して宗澄尼と号した。
以降尼門跡として5人の皇女が入室している。
御所人形が約200点ほど伝わっており、皇室ゆかりの寺宝も多い。
特別公開の時期、書院は内部へ上がっての拝観可能だが撮影禁止なのですが画像はありません。。
その後、法然院へと向かいます。
途中、安楽寺がありますが特別公開の日がずれているため拝観できません。
安楽寺は、別名松虫鈴虫寺と呼ばれる浄土宗のお寺です。
なぜ松虫鈴虫寺と呼ばれるのか、それはある姫たちに関する悲しいお話が由来となっています。
鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。
1206年(建永元)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。
江戸時代初期の1680年(延宝8)、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。
白砂壇(びゃくさだん)
山門を入ると、両側に白い盛り砂がある。
水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味している。
当山には椿が多く、特に本堂北側の中庭には、三銘椿(五色散り椿・貴椿・花笠椿)が整然と植えられている。
花期は3月下旬から4月中旬。
三銘椿、春期特別公開 法然院
正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが、院号の「法然院」で名が通っている。 … 続きを読む →
さて、両姫のその後ですが、二人は瀬戸内海の小さな島「生口島」の光明坊で念仏三昧の日々を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生しました。
経緯は不明だが住吉にも松虫鈴虫を祀った塚がある。
松虫塚
昔、このあたりは見渡す限りの原野で、秋には虫の声が満ち、特に松虫 (今の鈴虫)の … 続きを読む →
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