蜂須賀氏の居城 徳島城

四国
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吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城。
北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城だった。
天正十三年(1585)阿波国17万6千石の領主となった蜂須賀家政によって建設された。

海蝕痕
岩肌に残る大小の円形のくぼみは、海の波に侵食された跡。
気候温暖化に伴う海面の上昇や陸地の沈降により、海水が内陸まで入り込んだ、いわゆる「海進」によるもので、大規模な海進があった6,000~5,000年前頃(縄文時代早~前期)には、このあたりが海であったことがわかる。

城山貝塚
縄文海進期、紀元前1500年~紀元前500年ごろの洞窟遺跡。
東麓~南東麓に順に1~3号貝塚が現存する。
4号遺跡(貝塚はない)・5号貝塚も発見されたが現在では位置不明。

「数寄屋橋」から「鷺の門」方向を見る。
真っ直ぐに延びる堀川と、年代を感じさせる古い石垣が何とも言えない。
石垣は阿波産の変成岩で、青みがかった石は緑泥片岩(りょくでいへんがん)で、赤みがかった石は紅簾片岩(こうれんへんがん)。

偏平に割れ、城郭のような大規模な石垣を築くのに必ずしも適しているとは言えない片岩を使った石垣は、花崗岩を自在に切り割って組み上げた城郭石垣とはまた異なった趣を醸し出している。

下乗橋(小見付橋)
城内の掘に架けられた木製の太鼓橋で、殿様の住む御殿への正面出入口にあたり、この橋を渡ると桝形が設けられ石垣や門によって厳重に守られていた。

下乗橋の名前は、橋の前で駕籠などの乗り物から降りて歩いて渡ったことから由来している。
明治二年(1869)に花崗岩製となり、さらに同四十一年(1908)現在のように水平の橋に改造された。

1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜った。
入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成した。

以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎える。
築城にあたっては、天下人豊臣秀吉の命により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力したという(『城址案内板』)。

江戸時代に徳島城を建築した際に蜂須賀氏が正門として建てた。
廃城令により徳島城が廃城となった後も、鷲の門だけは残されていたが、1945年(昭和20年)の徳島大空襲によって焼失した。

数寄屋橋、復元・鬼門にあり、凶事の際以外には開かれる事はなかった。

阿波踊りの起源について、はっきりしたことはわかっておらず、いろいろな説がある。
その中で最も有名なものは、「戦国時代末期の1585年(天正13年)に蜂須賀家正(はちすかいえまさ)が徳島城を築き、その落成祝いに「城の完成祝いだ、好きに踊れ!」と、無礼講の踊りを場内で行ったというのが始まりである」という説。

阿波踊りの伴奏とともに唄われる「よしこの」の歌詞にも「阿波の殿様 蜂須賀様の今にのこせし 阿波踊り」というフレーズがあることから、この説が一番信頼性が高いのではないか。

徳島城博物館と旧徳島城御殿庭園。

旧徳島城表御殿庭園(通称 千秋閣庭園)
この庭園は、もと阿波、淡路両国を領有した蜂須賀公の居間や表書院の庭先に当たったもので上田主水正(宗箇)の作庭といわれ枯山水庭と築山泉水庭の二庭からなり池泉廻遊式と観賞式を兼ね備えた庭園。

ことに枯山水庭中島には、初代藩主蜂須賀至鎮公(義伝公)踏割の伝説がある長さ10.6メートル(三十五尺)の自然石橋と豪華な御影石(花崗岩)の切石橋を架け築山には、北宗画風の遠山石を組み蘇鉄を植栽した豪壮かつ優美なもの。

山麓の御殿跡に建つ蜂須賀家政公の銅像。

西三の丸から西二の丸を目指す。
一気に登ると息が切れる。

西二の丸には鉄砲櫓と帳櫓、その西方の西三の丸には材木櫓と平櫓が設けられていた。

本丸直下の石垣、偏平な緑色片岩の乱積みで、角は算木積みで処理している。

創建当時の天守は元和年間(1615年–1624年)に取り壊されたといわれており、まもなく、城山の中腹にある東二の丸に天守代用の御三階櫓が構えられた。

本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山定番の詰めた御留守番所のほか、弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていた。

清玄坊神社、本丸跡東部に建つ、石の祠のみの神社。
もともと城山には清玄坊が祭る寺社があったが、築城時に立ち退きを拒んだため蜂須賀家政に謀殺された(弓で射られたとも、斬殺されたとも)。

その後、祟りが相次いだため、家政は清玄の霊を鎮めるためにこの神社を建てた。
毎年5月5日に「清玄さんのお祭り」が清玄の没地とされる一番町で開かれる。

東側、東二の丸付近の石垣、苔むして何とも言えぬ風情を醸す。

東二の丸天守は、天守破却後に天守の代用として建てられた、当時は御三階櫓と呼ばれていた。


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徳島城へのアクセス生き方歩き方

住所:徳島県徳島市徳島町城内1
電話番号
088-656-2525(徳島市立徳島城博物館)
088-621-5419(徳島市教育委員会社会教育課)
JR徳島線・牟岐線 徳島駅 徒歩約10分