紅葉期の高取城

奈良県
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大和高取城は奈良県の紅葉の名所。

11月には本丸や二の丸を中心に真っ赤に燃える様は圧巻の風景だが、今回はすこし盛りを過ぎている。
画像は壺坂口中門跡。

高取山に築かれた山城で、日本三大山城のひとつ。

南北朝時代に、大和の有力国人である越智氏によって築かれた。

安土桃山時代に、豊臣秀長の家臣である本多氏によって整備・拡充され、山城としては他に類を見ない規模となった。

朝日を浴びて苔むした石垣がキラキラ輝き美しい。

しかし、天守台などの石垣は西向きのため時間帯は午後が良いと言われる。

江戸時代には高取藩が置かれ、本多氏の後には譜代大名である植村氏が入り、幕末まで続いた。

高取城には、建物はほとんど残っていないが、石垣はよく残されており、城の構造を知ることができる。

国の史跡に指定され、『日本100名城』(財団法人日本城郭協会)にも認定されている。

高取城は、元弘2年(1332年)に南朝方の豪族であった越智邦澄(おちくにずみ)が、貝吹山城の支城として築いた山城です。

当初は中世城郭によく見られる掻き揚げ城(かきあげじろ。簡単な堀と土塁がある程度の城)でしたが、後に豊臣秀長の家臣である本多利久らにより本格的な改修が行われ、近世城郭へと生まれ変わりました。

比高(麓から本丸までの高低差)390mは日本一であり、岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城とともに日本三大山城の一つに数えられています。

「石垣は隅を見ろ」とも言われ、石積みの技術は隅石によく現れるのだそうです。

忍び返し(反り)のない、一直線に伸びる隅石。

隅石は算木積(さんぎづみ)と呼ばれる技法で積み上げられ、直方体に加工した石を交互に直角に交わるように積み重ねることで強度が増し崩れにくくなるそうです。

城内の周囲は約30km、郭内(石垣内)の周囲は約20kmと推定され、これは姫路城と同等の規模に相当します。

高取城は、天正8年(1580年)に織田信長の命により一旦廃城となりましたが、信長の死後、筒井順慶により復興されました。

以後、本多利久の時代を経て、寛永17年(1640年)に譜代植村家政が入城してからは、植村家の居城として幕末まで続きました。

明治6年(1873年)に廃城となり、現在では建物は残っていませんが、約10mある高石垣などの遺構は人為的に破壊されることなくほぼ完全な状態をとどめています。

このため、貴重な城郭資料であるとして、昭和28年(1953年)には国史跡に指定されました(指定名称「高取城跡」)。

明治2年(1869年)6月、版籍奉還により兵部省の管轄となり明治6年(1873年)廃城となった。

入札により建造物の大半が近隣の寺院などに売却された。

明治20年(1887年)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたが人里離れた山頂であるため管理されずに自然倒壊したとされる。

画像は二上山と後方は吉野の山々。

その一方で、明治6年(1873年)に建物の払い下げが行われ、7円35銭6厘(100円とも)で落札されるが一部を取り壊したのみで、明治20年(1887年)に黒門の払い下げ、明治24年(1891年)ごろに天守以下の建物全ての取り壊しが行われたともされる。

殆どの建物は失われたが、遺構は人里離れた山頂にあることが幸いし、人為的に崩壊することなくほぼ完全な状態をとどめている。

しかし、樹木が生長し根が張り出したり、維持管理や補修が充分でない事から石垣の形が崩れたり崩落の危険がある箇所もある。

この内、二の門は町内にある子嶋寺の山門に、新御殿(藩主下屋敷)の表門は町内の石川医院の表門に、松ノ門は1892年(明治25年)に土佐小学校(町立高取小学校)の校門として移築された。

1944年(昭和19年)、小学校で起きた火災により小学校は全焼、松ノ門は一部損傷し臼井家(伊勢屋・現在の金剛力酒造)が解体保存していたが[1]2004年(平成16年)、児童公園の表門として復元した。

確認されている高取城の現存構造物はこれらのみである。

この他に、下屋敷表門を移築したものではないかと言われている門が残っていたが門は取り壊され石碑のみになっている。

南面石垣は湾曲し、直線の石垣と比べて死角が少なく、敵方を狙いやすくなるそうです。

歴史ロマン漂う城跡ですが、ここは軍事施設でもあるのだと改めて気づかされます。

高取城の特徴として「城郭談話会」では次の4つを挙げている。

標高の高い山城であるが近世の施設がある。

戦国時代以前の山城は山上の要害に築かれているが、近世になるにつれ小高い丘や平地の中心部に居城が移されることが多い。

高取城のように山城のまま石垣、天守、櫓、門、殿舎まで築かれた例は少ない。

火災や風雨、山上の不便さから、再築されることが少なかったからである。

しかし、高取城は3代将軍家光より「一々言上に及ばず」という許可があり、それで江戸時代を通じて各建物の存続と完備ができたとしている。

縄張と虎口の構成

高取城の縄張りは山城であるにもかかわらず、広い敷地をもち、連郭式縄張りと言われている。

高取城は標高が高い場所に築城されているわりには、天守、櫓、門等の多くが建設される余裕があり、平山城と同じような構えをもっている。

また不等辺台形の隅部に三重天守、小天守、二重櫓を配し、周囲に多聞櫓を巡らしている点は、和歌山城と類似する。

この共通性は、羽柴秀長が3か国の太守となり、和歌山城には桑山重晴、抑えの城である高取城には本多利久と、自らの家臣を置いたからと考えられている。

天守と小天守が建てられている

山城に天守がある例は日本国内ではいくつかあったが、小天守まである例はほとんどない。

例えば洲本城には、天守に小天守台はあったが、小天守台に小天守が建てられたかどうかは不明である。

そもそも山城は眺望が優れており、近世の山城には天守すらない例があるが、高取城は「三重天守」以外にも一回り小さな「三重小天守」まである。

築造時期は明確ではないが、本多利久から植村氏が入るまでと推定されている。

櫓の数棟が多く、独特の名称が多い

高取城は櫓の数が多い。

三重櫓は、天守、小天守を含めると6棟あって、二重櫓が7棟あり、白漆喰総塗籠で姫路城に似た外観であったと考えられている。

また、鐙櫓、具足櫓、十方矢倉、火之見櫓、客人櫓、小姓櫓など、独特の櫓名があるのも高取城の特徴であると指摘している。

また、二の門外の大手筋と岡口門の分岐に、猿石と呼ばれる石像がある。明日香村から石材として運ばれたもの。

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