法住寺 後白河院政の舞台

京都府
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後白河上皇が院政を行った法住寺。
かつては「法住寺殿」と呼ばれ、一帯に広大な敷地を有していた。

境内には後白河法皇像が安置されていて、4月27日~5月7日に一般公開(予定)が行われる。

その敷地は十余町、平家をうしろだてにした上皇の権威で、周囲の建物はとりこわされ、広大な敷地に南殿、西殿、北殿の三御所がつくられた。
狭義の法住寺殿はこの南殿をいう。

南殿には上皇のすまいとともに、東小御堂、不動堂、千手堂がたちならび、広大な池もあった。
1163年(長寛元年)には、蓮華王院(三十三間堂)が平清盛の寄進で南殿の北側に造立された。

また新日吉神社、新熊野本宮も法住寺殿内に建立された。
1176年(安元2年)後白河上皇の女御建春門院(平滋子)が亡くなると、女御の御陵として法華堂が建てられた。

旧御陵正門の竜宮門。
山門の右側にある。

後白河法皇の木像、法皇ゆかりのご本尊「身代り不動明王像」や「親鸞上人そば喰いの像」などがあって、歴史好きの人にはたまらない。
春の梅が見事な寺だが、夏の芙蓉も捨てがたいものがある。

法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)は、寿永2年(1183年)11月19日、木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事クーデターである。
平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。

法住寺殿が木曾義仲によって焼き討ちされ、数年を経て後白河上皇もなくなると、法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治期に御陵と寺が分離され現在にいたる。

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法住寺へのアクセス、行き方歩き方

所在地:京都市東山区三十三間堂廻り町655
電話番号:075-561-4137

市バス「三十三間堂前」下車、徒歩2分