悲運の武将 明智光秀終焉の地

京都府
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地下鉄東西線醍醐駅から、徒歩で15分程でしょうか。
枯れ寂びた藪の中、明智薮”が残されています。

本経寺敷地内にある光秀公供養塔
近江、坂本城主、 明智光秀は天正十年 6月2日 (1582年) “本能寺の変” に依り 天下を征服したが、その後 明智光秀軍は六月十三日 京都山崎に於いて 天下分け目の合戦で 豊臣秀吉軍に敗れ 近臣十余名と共に坂本城を目指したが 当地小栗栖にて えない最后を遂げた。

ここに悲運の戦国時代の武将の光秀公の供養をささげて歴史の一端を伝える  平成10年6月寂辰 当山識  とある

本経寺(ほんきょうじ)
【住所】京都市伏見区小栗栖小阪町5
【電話番号】075-571-2173【FAX】075-571-2173

交通案内
地下鉄醍醐駅より徒歩15分
京阪バス 小栗栖停留所より徒歩5分

明智藪は、とても分かりにくい場所にあります。
途中にこの方向板があるのですが、ここまでが分かりにくい上に、これから先も分かりにくい。

明智藪(あけちやぶ)
近江坂本城主明智光秀は一五八二年(天正十年)六月二日早朝中国地方へ出陣のため上洛していた織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた(本能寺の変)。

その後光秀は六月十二日山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、近臣十数名とともに暗夜に乗じて坂本城をめざしたが、途中小栗栖の附近にさしかかったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃によりあえない最后を遂げたといわれている。

この明智藪は、今日に至るまで、戦国武将明智光秀の終焉の地として傳えられており、現在は西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領となっている。
平成三年二月吉日
京都洛東ライオンズクラブ建立
とあります。

明智藪は本経寺の寺領となっており、塀や柵で囲われて、明智藪の面影をうかがうすべもありません。
冷ややかな木枯らしが吹き抜け、寂寥とした雰囲気を漂わせていました。
また、小栗栖街道を北へ勧修寺手前に明智塚があり、胴体を埋めた場所といわれています。

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