家康公大御所時代の居城 駿府城

日本100名城
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今川氏全盛期9代義元の時代に、徳川家康(幼名 松平竹千代)は人質として19歳までの12年間、駿府で生活しています。
後に戦国大名、そして天下人へと成長していく過程で臨済寺の住職太原雪斎などから種々の教えを受けており、家康の人間形成の上で非常に重要な時期を駿府で過ごしています。

北門橋を渡ってすぐの石垣に高麗門が北向きに建っていた。
それをくぐると枡形正面の石垣に従って右折して二の丸に入る。

駿府城跡本丸跡付近に有名な東照公遺訓の碑があります。

人の一生は 重荷を負うて遠き道を行くが如し  急ぐべからず 
不自由を常と思えば不足なし
心に望みおこらば  困窮したる時を思い出すべし 
堪忍は無事長久の基  怒りは敵と思え
勝つことばかり知り  負くる事を知らざれば  害その身に至る 
己れを責めて人を責むるな
及ばざるは過ぎたるに勝れリ

慶長10年将軍職を2代秀忠に譲った家康は、その翌年駿府を「大御所政治」の拠点の地と定めて再び戻ってきました。
そして、家康自らは、晩年も「大御所」として天下の実権を掌握し、駿府は江戸を凌ぐ政治・経済・文化の中心としてその黄金時代を迎えたのでした。

家康公は慶長20年(元和元年・1615年)5月の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした後、元号を「元和」と改めて、平和になったことを宣言する。
応仁の乱(東国においてはそれ以前の享徳の乱)以来150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了した事を指す。

これを元和偃武(げんなえんぶ)といいます。
偃武とは、中国古典『書経』周書・武成篇の中の語
王来自商、至于豊。乃偃武修文。
(王 商自り来たり、豊に至る。乃ち武を偃(ふ)せて文を修む。)」
に由来し、武器を偃(ふ)せて武器庫に収める事を指している。

それで家康公は安心したのか、翌年の元和2年(1616年)1月、鷹狩りに出た先で倒れてしまい、4月17日に駿府城で逝去、享年75歳でした。

巽櫓は、駿府城二ノ丸の東南角に設けられた三層二重の隅櫓で、十二支であらわした巽(辰巳)の方角に位置することから「巽櫓」と呼ばれました。
櫓は戦闘時には戦闘の拠点となり、望楼、敵への攻撃、武器の保管などの役目をもっていました。

東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。
この門は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多聞櫓で構成される桝形門です。

二の丸水路を渡ったところには「銀座の柳二世」という柳の木があります。
説明板によると1601(慶長6)年5月、徳川家康は京都伏見に銀座を開設しました。
その後1606(慶長11)年、駿府両替町に2番目の銀座が開設されました。
しかし、銀座は翌年、江戸に移動となり、町名も新両替町となりました。
新両替町も1868(明治2)には町名を銀座と改めました。

銀座は1883(明治17)年、銀座の街は全面、柳の街路樹が植えられこととなりました。
関東大震災や太平洋戦争にも残った柳の木は1967(昭和42)年、高度経済成長の波に呑まれ、姿を消しました。
しかし、銀座の柳は各地に接木による苗木が贈られていたため、逆にその苗木が贈られて、銀座の柳は復活しました。
この柳の木はそのさらに復活した柳の苗木を植樹したものだそうだ。

本丸堀と二の丸堀を結ぶ水路で、幅4.5m、長さ95mもあったという。
4回折れ曲がっていて、底の部分にも石が敷き詰められ、底が洗い流されない構造になっていました。
本丸堀の水位を保つ役割をしていたそうだ。

紅葉山庭園では梅がほころび始め、緋寒桜も咲いていました、又の名を駿府桜と言うと受付嬢が教えてくれた。

三保の松原を再現した洲浜。

茶畑に見立てたサツキの畝と芝に囲まれた築山は、駿河の国の象徴・富士山。
紅葉山庭園の中心となり、中腹の展望台からは庭園全体が見渡せます。

松原の尽きる辺りには茶室があり、お嬢さんが茶を接待してくれた。
寒い中ありがたい一服であった。

入り口から静月庵へと続く飛び石、今回は見学できなかった。

飛沫も涼しげな左右二本、二段落ちの滝。

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駿府城へのアクセス、行き方歩き方

駿府公園二の丸施設管理事務所
静岡市葵区駿府公園1-1
TEL:054-251-0016
JR静岡駅から徒歩約10分
駿府浪漫バス/静岡駅前5番乗り場 駿府浪漫バスで約7分「東御門」下車