北御門(きたみかど)口(裏参道)は火除橋の手前に手水舎がある。
明治以前はこちらが正面入り口でしたが、伊勢市駅が出来、現在では裏参道になっている。
手水舎で手を洗い口をすすぎ身も心も清めて、表参道を進むと正面に第一鳥居がある。
第一鳥居をすぎるとすぐ左側には祓所(はらえど)があり、ここでは奉幣祭のときにお祓いの行事が行われる。
参道は右に曲がって続くが右手奥には斎館がある。
斎館、祭典のときには、祭主、大宮司、少宮司をはじめ全神職が前夜または前前夜から参籠(さんろう・心身を清めるためのおこもり)する。
斎館の建物に続いて行在所(あんざいしょ・天皇陛下ご参拝のときのご用にあてられる)がある。
正宮、内宮の鎮座より約500年後の雄略天皇の時に、天照大御神の食事をつかさどる御饌都神(みけつかみ)として、丹波の国(今の京都府北部)から伊勢の国に迎えられたと伝えられている。
一番外の御垣を板垣といい、その板垣御門の中に入ると、純白の絹の御幌(みとばり)がたれている外玉垣南御門があり、一般にはこの前でお参りする。
正式な参拝の仕方は、二拝、二拍手、一拝。
お参りがすんだら外玉垣御門の左方に寄ると、三重の垣の奥にひときわ高く、千木、鰹木の金具が光輝く正殿の屋根が望める。
萱葺きの屋根の両端には外削(そとそぎ・先端を垂直に切る)の千木がそびえ立ち、棟には九本の鰹木が並んでいる。
唯一神明造といい、檜の素木(しらき)造で、柱を直接、地中に埋めて建てる掘立式という純日本風の建築様式。
正殿の前方の両側には、皇室からのお供えを納める東宝殿・西宝殿があり、この三つの建物が四重の垣―――内から外へ瑞垣、内玉垣、外玉垣、板垣で囲まれている。
外玉垣の中を中重(なかのえ)といい、中央に中重鳥居が立っている。
東側の萱葺の建物は四丈殿といって、雨の時、ここで中重の行事が行われる。
中の御池に映る正宮。
この御池は昔、宮川の支流で外宮正宮前を流れていたのが、いつしか地震などで埋まって細長い池となったもの。
この横に、注連縄を張った中に丸石3個を並べた石積みがある。
俗に「三つ石」と呼ぶ川原祓所(かわらのはらいしょ)で、式年遷宮の時にだけお祓いの儀式が行われる場所。
亀石〈かめいし〉、多賀宮に進む参道の途中、中の御池にかけられている1枚の大石の橋がある。
亀に似ているところから亀石と呼んでいる。
土宮、外宮の土地の守り神で大土御祖神(おおつちみおやのかみ)が御祭神である。
多賀宮への参道の右側にある。
風宮、土宮の東には、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)の風神をおまつりする風宮がある。
元寇時に神風を吹かしたと伝えられる。
内宮にも同じ御祭神の風日祈宮がある。
多賀宮は小高い檜尾山上にあり、約100段の石段を上るとようやくたどり着ける。
多賀宮、豊受大御神の荒御魂をおまつりしている、外宮第一の別宮。
高い所におまつりするから昔は、高宮とも書かれていた。
伊勢神宮外宮の鳥居を入ったすぐの左側のまがたま池畔に、「せんぐう館」がつくられた。
20年に一度繰り返してきた式年遷宮の工事に使われた道具、神事や装束、神宝などの一部を展示する施設である。
これらはいままで公開されていなかったのだが、来年の式年遷宮を記念して公開することになった。
勾玉池は、明治22年9月に造られ、勾玉の形をしている。
北側の池畔には舞楽の舞台が常設されていて、神宮観月会が仲秋の名月の宵に行われる。
また、参拝者休憩所もあり、6月頃は花菖蒲が美しく湖畔を彩る。
表参道の火除橋を進むとすぐ左側にあります。
独り言・・・・・
梅原猛氏は著書「海人と天皇」の中で、持統天皇の不思議な行動の一つとして、「伊勢御幸」のことを取り上げられている。
① 外宮に祭られている「豊受大神」が伊勢の本来の産土である。
② 「内宮」は「外宮」と違って、初めから天皇家の祖神を祀るために、持統天皇と中臣氏によって作られた神社であって、持統天皇はこの時内宮の社殿建築のために出かけたのである。
③ 天皇家の皇祖神としての天照大神という女神を自分と重ね合わせたのかも知れない。
内宮の荒祭宮の境内では5~6世紀頃の遺物が出土し、「荒祭宮祭祀遺跡」と呼ばれる遺跡がある。
一方、外宮では9世紀初頭の遺物が最古の例であることから、内宮の立地する場所が古くからの祭祀の場だったことは確実とされる。
壬申の乱(672年)の混乱が鎮まり、律令国家を目指していた時期に、中華王朝の皇帝が奉祭する祖霊廟と様式が異なるが、日本国の天皇家の祖霊廟としての風格を備えた神宮創建(あるいは大改造)に着手し、690年頃に伊勢神宮の内宮、698年頃に外宮が完成したものと思われるが起源に関する史料がない。
伊勢神宮の成立について確かなのは、現在地での成立が文武天皇の698年であること。
彼は律令体制を築いた天武・持統両実力天皇の孫。
伊勢神宮は『日本書紀』と同様に、日本国の体制固めのための歴史や祭祀整備の一環であるが、天武天皇は完成を待たずに死去。
三輪山の祭主である大神(おおみわ)氏が、持統天皇の伊勢行幸(690年)に強硬に反対したとされるが、大王家(天皇家)の氏神を御神体の三輪山から抜き取って、伊勢に遷された大神氏としては当然の反応だといえる。
不思議なのは、女帝の持統天皇以降、明治天皇まで行幸がなかったこと。
熊野行幸は1090年の白河上皇からと言われるが、白河上皇は9回の熊野行幸を行った。
その後、後白河上皇も33回の熊野行幸を行っている。
なぜ伊勢神宮行幸がなかったのだろう。
それは天武天皇の期待とは裏腹に、天皇家の祖神を祀る神宮とはされず、あくまでも天武天皇の私的な祭祀霊場とされたのではないだろうか。
伊勢神宮の起源を知れば理解できます。
壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)が、吉野から逃れ伊勢に入った時、国司初め多くの国人の助けを受け、これが勝利の元になった。
のちの柿本人麿呂の歌の中に
行く鳥の 争うはしに 渡会の斎宮ゆ
神風に 伊吹きまどはし
伊勢の神風で大海人皇子の勝利が決まったとの意。
天武天皇はお礼に国人の信仰厚い渡会(今の三重県明和辺り)の狭く簡素な斎宮を、五十鈴川のほとりに立派な社殿を建立し移すこととした。
生存中は完成せず、持統四年に完成し、伊勢皇大神宮の第一回遷宮を行った
。
天武天皇の私的皇祖祭祀場と見られたようだ。
持統六年の伊勢神宮御親拝にあたり、強い反対があった。
それ以降明治まで約千年間天皇の伊勢御親拝は行われなかった。
道鏡の事件で、御神託を仰いだのは、宇佐神宮、後白河法皇は33回も熊野神社詣を行ったのに、伊勢詣はない。
公式には天皇は絶えず継承されているが、事実は持統天皇が新しい皇祖となり、子、孫に新しい王朝として天皇となる、という事だったのでしょう。
事実、天皇の菩提寺である泉涌寺には、天武から称徳までの位牌が無い。
光仁、桓武は天智天皇から皇位継承権を受け継いだ現天皇家の先祖だが、天武から称徳は天皇家に列なる者では無い、とされている。
それゆえ、持統天皇はアマテラスという皇祖神を作り出し、自分の子孫に天皇となる正当性を持たせたかったのでしょう。
ところでこの新嘗祭の前夜、つまり今日11月22日の夜に、宮中で不思議な祭祀が行われることをご存知でしょうか?
今年に限らず毎年行われてきた宮中祭祀で、古代からほとんど形を変えずに継承されてきたとされ、神秘のベールに包まれています。
宮内庁のHPでも一言も存在について触れられていないその宮中祭祀とは・・・
「鎮魂祭」(みたましずめのまつり)。
鎮魂という言葉から亡くなった人々の慰霊の祭祀かと思われるでしょうが、この場合の鎮魂祭は意味合いが全く異なります。
簡単に言うと、「再生・復活の儀式」です。
神道では「魂は不安定で、時には遊離してしまう」と考えられています。
そのため、まず遊離しようとする天皇の魂を体に鎮めて安定させ、その後で外から「魂を振る」ことで再び力を甦らせる・・・この目的で行われるのが「鎮魂祭」です。
このような「再生・復活」の宮中祭祀を新嘗祭の前夜に行うことで、最も力を持った状態で最重要の宮中祭祀に臨むというわけです。
これがはるか古代からずっと続けられてきました。
現代人の感覚では不思議に思うかも知れません。
非科学的と言えばそれまででしょう。
しかし、古代の人々にとっては決して怪しげなものではなく、むしろ真実といってもよいものでした。
現に最近の歴史教科書では、古代の人々は霊的な現象に悩まされることが多く非常に恐れていた、という解説が多く見られます。
桓武天皇による平安京遷都も「怨霊に悩まされたため」とはっきりと書かれています。
古代史の理解には、こうした当時の人々の考え方が必要です。
そしてこの「鎮魂祭」が、宮中だけでなく奈良県天理市の「石上神宮」(いそのかみじんぐう)でも行われます。
宮中祭祀が別の場所で行われているというと、天皇家の真似をしていると思われるでしょう。
しかし、実際は逆。
石上神宮に伝わっているのが本家で、それが宮中祭祀に取り入れられたのです。
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