春日若宮神社付近から長尾神社まで、竹内街道は「竹内」「長尾」といった集落の間を通り抜ける。
石器作りの職人らが、この地に移り住んだことが竹内集落の始まりとされているらしいから、歴史は縄文時代にまで遡る。
今も草ぶきの大和棟が残り、また、格子戸や虫籠窓を設けた民家も点在し、風情漂う道 が残る。
当麻寺への参道、突き当りのあたりが當麻寺。
県道山麓線を東へ横断し、長尾の集落に入ったあたりで振り返ると、南に向かって伸びる金剛山地の稜線が幾十にも重なり、その美しさに思わずカメラを向けたくなった。
背後に岩橋山、そして大和葛城山、金剛山と続く。
『街道をゆく1・竹内街道』には、次のような記述がある。
昭和十八年の晩秋、竹内へ登るべくこの長尾の在所までゆきついたとき、仰ぐと葛城山の山麓は裳(もすそ)をふくらませたように古墳状の丘陵がむくむくと幾重にもかさなりあい、空間を大きく占める葛城の本体こそ青々しくはあったが、そのスカートを飾る丘々がさまざまの落葉樹でいろづいていて、声をのむような美しさであるようにおもえた。
くりかえしていうようだが、その葛城をあおぐ場所は、長尾村の北端であることがのぞましい。
それも田のあぜから望まれよ。
視界の左手に葛城山が大きく脊梁(せきりょう)を隆起させ、そのむこうの河内金剛山がわずかに頂上だけを、大和葛城山の稜線の上にのぞかせている。
正面の鞍部が竹内峠であり、右手は葛城山の稜線がひくくなって、大舞台の右袖をひきたてさせるように、二上山が、雌その岳を左に雄岳を右になだらかに起伏させ、そして大和盆地からみれば夕陽はこの山に落ちる。
その西陽の落ちるあたりに、中世の浄土信仰の一淵叢であった当麻寺があり、ありはするが、その堂塔は露骨ではなく、樹叢にうずもれてかすかにうかがえる。
「大和で、この角度からみた景色がいちばんうつくしい」
大和国北葛城郡竹内というのが、竹之内峠の大和側の山麓にある。
車はそこをめざしているのだが、私事をいうと、私は幼年期や少年期には、その竹内村の河村家という家で印象的にはずっと暮らしていたような気がする。
そこが母親の実家だったからだが、母親が脚気であったためその隣り村の今市という村の仲川という家で乳をのませてもらっていたから、竹内峠の山麓はいわば故郷のようなものである。
村のなかを、車一台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内村までは路幅も変わらず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変わっていまい。
それが、竹内街道であり、もし文化庁のその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾ー竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定されるべき道であろう。
街道をゆく 1 葛城山 司馬遼太郎 より
画像は建て替えられているが司馬さんのいう河村家。
推古天皇21年(613年)に、難波と飛鳥京の間におかれたこの街道は、飛鳥時代にわが国最初の官道として栄え、大陸からの文物を大和飛鳥にもたらしました。
峠の東北にある万歳山城などの中世の城塁址はこのあたりを駆けめぐった大和武士たちの夢を偲ばせています。
中・近世には、伊勢、長谷参詣が隆盛し、茶屋、旅籠が峠を行く人々の旅情を慰めました。
竹内街道の風景には多くの文化人たちが筆を取り、貞享5年に松尾芭蕉が河内に向かい、幕末嘉永6年に吉田松陰が竹内峠を経て儒者を訪ね、文久3年には天誅組の中山忠光等7名が志果たせぬままここに逃走しています。
この地は、芭蕉の門人千里の郷里で、芭蕉は貞享元年(1684年)秋千里の案内でこの地に来り、数日間竹の内興善庵に滞在している。
さらに元禄元年(1689年)春再びこの地を訪れ、孝女伊麻に会って、その親を思う美しい心にこの上もなく感激し、「よろづのたつときも、伊麻を見るまでのことにこそあなれ」と友人に手紙を送っている。
俳聖芭蕉は貞享元年秋、元禄元年春その他数回当地を訪れたと思われ、数々の句文を残している。
なお、『野ざらし紀行』によると、芭蕉は1684年(貞亭元年) 9月に門人千里の案内で彼の故郷竹内村を訪れ、以下の句を残している。
芭蕉の足跡を記念して1809年に建てられた「綿弓塚」が、造り酒屋の古い屋敷を改装した無人休息所敷地内にあり、竹内街道の散策の拠点となっている。
老女伊麻旧跡(法善寺)
伊麻は父が病に伏せた時、鰻を食べさせればよいと人に教えられましたが、山里ではどうしようもありませんでした。
しかし、あきらめることができず、何とかして鰻を食べさせてやりたい―そんな伊麻の願いが天に通じたのでしょう。
夜がふけて大分遅くなったころ水がめの中で音がしました。
何だろうと思ってのぞいてみると、何とそこには鰻がいたのでした。
喜んだ伊麻はさっそく料理をして父に食べさせると、病いはたちまちのうちに治り、もとの元気な体になりました。
私ども子供のころにはこの池は山林の嵐気を映して、池心がおそろしいばかりに青く、他の地方と同じように主がいるといわれ、それを理由に子供たちが泳ぐことを禁じられていた。
しかし私は真夏にはさんざんこの池で泳いだ。(上池改修の石碑)
子供たちはカミの池を怖れていたが尊敬もしていた。
なぜなら、これほど大きい池はちょっと近在になかったからである。
「海ちゅうのは、デライけ?」と、なかまの子供たちからきかれたことがある。
デライ、というのはドエライということで大きいという意味であった。(上池)
私は(中略)大阪からやってくるという立場上、村外の知識はかれらより多く持っていた。
「デライ」と断定すると子供たちはうなずいてくれた。
子供たちはさらに「カミの池よりデライけ?」と聞いた。
私は比較の表現に困り、「むこうが見えん」というと、こどもたちは大笑いし、そんなアホな池があるもんけと口々にののしり、私は大うそつきになってしまった。
いまの日本は実に文明開化したものである。
カミの池から竹内街道分岐まで道路の側道を歩く。
正面に畝傍山が見えています。
万葉集の中では「瑞山」(みずやま)とも詠まれた。
天香久山、耳成山とともに大和三山と呼ばれ、2005年(平成17年)7月14日には他の2山とともに国の名勝に指定された。
標高は198.8メートルと三山の中では最も高い。
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