加賀藩の秘策 人呼んで、忍者寺 妙立寺(みょうりゅうじ)

北陸

妙立寺(みょうりゅうじ)とは、石川県金沢市にある日蓮宗の寺院。山号は正久山。
潮師法縁。

加賀藩第三代藩主前田利常が創建した。
複雑な建築構造と外敵を欺く仕掛けから、忍者寺(にんじゃでら)とも呼ばれる。

当時、幕命で3階建て以上の建物は禁止されていたことにより、外観は2階建てだが、内部は4階建て7層になっている。
中2階、中々2階があり、部屋数は23、階段数は29もある。

寛永20年(1643年)、三代藩主利常が金沢城の近くから移築建立する。
利常は徳川幕府の改易を避けるため、徳川家から嫁を迎え、母親を人質に出し、鼻毛を伸ばして馬鹿殿様を演じることで、幕府を欺き安心させる。

一方、多くの武士が起居できる寺院群(現在の寺町寺院群)を新築し、その中心に監視所(城でいう本丸)として妙立寺を建立する。
要塞としての機能を備えた妙立寺は、隠し階段・隠し部屋・落とし穴・見張り台・金沢城へ続く地下通路など外敵を欺く種々な仕掛けを備える。

忍者寺と呼ばれるのは、忍者がいたのではなく、その複雑な建築構造からそう呼ばれる

物見台・望楼 本堂の屋根の先端部分にあるギヤマン(現在はガラス)張りの見張り台。
加賀平野を遠望でき、敵の動きをいち早く察知できる。

受付の横にある階段にもカラクリがあります。
階段の後ろは下男の部屋なんです。
で、階段の白い部分は、下男の部屋から透きとおって見えるんです。
だから、敵がきたら槍で一突き!ってわけ。

俗に「三百諸侯」ともよばれ領地の統治を任されていた大名。
実際の数は、260から280ほどだったと言われています。
一般的には、御三家など、将軍の親族である「親藩」、関ヶ原の戦い以前から徳川家の家臣だった「譜代」、それ以降に仕えた「外様」と分類されていますが、当時の序列は、それぞれの家の格式に基づいていました。

「格式」は「家柄」「石高」「役職」「官位」が複雑に絡み合って構成されます。
特に「官位」は、幕府の内諾によって朝廷から与えられたもので、大名の序列を決めるうえで重要な役割を担っていました。

現代の我々から見ると難解ですが、こうした「格式」によって大名の地位を固定するという絶妙な統制策により江戸幕府の安定が成り立っていたともいえるのです。
「格付け」「ランキング」が好きな国民性もこのあたりから来ているのかもしれません。

内部は隠し階段・隠し部屋・落とし穴・見張り台・金沢城へ続く地下通路など外敵を欺く種々な仕掛けを備えているが撮影禁止なので文章で伝えるしかありません。

賽銭箱(落とし穴)
本堂正面入り口に埋め込まれている。細工が仕掛けられ落とし穴として利用できた。

隠し階段
物置の戸を開いて、床板をまくると階段が現れる。巧妙に階下への通路が隠されている

落とし穴階段
本堂の階段群にある渡り廊下に見せた階段。
床板をはずすと落とし穴になり、下男部屋へ通じている。
この落とし穴に落ちると、階下で待ち伏せている下男により、攻撃される仕組みになっている。

本堂裏隠し階段
物置の戸を開けて床板をまくると、階段があり外へ逃げることができる。
外から堂内に逃げ込む際には、床板に溝が刻まれているため、引き戸を閉めることで“自動ロック”がかかり開かない仕組みになっている。

巨大な梁
雪の重みを分散するためで、北陸の豪雪に耐えるための仕組みといえる。

明かりとり階段
蹴込みの所に障子を張り明かりを採り、また外敵の足影を見て槍などで攻撃することも可能

謁見の間・主茶室
当山中、最も格式の高い部屋で歴代藩主が専ら用いた。五畳半大名茶室が附属する。

井戸
深さはおよそ25mほど。茶水に利用される。
水面上には横穴があり、金沢城へ続く逃げ道になったとも云われている。
そのため、庫裏の各部屋はこの井戸を中心に構成され、どの部屋からもロープを使い井戸へと逃げることができる。
しかし、当時の技術では犀川を越えて地下通路を掘るのは困難とされ、横穴が金沢城へと続いているかは定かではない。

太鼓橋
井戸を川と見立てて室内に架けられた橋。
橋の上から水を汲み上げお茶を嗜む。

切腹の間
「片どんでん返し」になっており、内側からは開けられない仕組みになっている。
非常時には自害し、火を放つための部屋だといわれている。
部屋の広さは死を表す4畳。

御簾(みす)の向こうにあるのが隠し拝殿。
藩主のみ入ることが許されていた。
天井からつり下がる駕籠(かご)は妙立寺の歴代住職が使用したもの。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

妙立寺へのアクセス、行き方歩き方

妙立寺公式サイト
〒921-8639 石川県金沢市野町1-2-12
JR北陸本線 金沢駅下車 – 北陸鉄道バス 広小路バス停下車 – 徒歩2分