冬日の大和郡山城

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今回クラブツーリズム澤熊講師選定の「近畿の20名城」のツアーがスタート早速行ってきた。

やまと郡山城ホール側から東隅櫓を望む。
桜のつぼみはまだ固く春の訪れが待たれる。

折から場内では盆梅展が開催されており、追手門脇には梅の鉢植えが展示してあるが、まだつぼみ。
ところでこの門、十五万石余を もって甲府城から郡山に移封なった柳澤甲斐守吉里が、一庵丸門を 梅林門と名を替えた。

郡山城の大手門をくくると緩やかな坂があり、上り切った左手が毘沙門郭跡です。
ここに冠木門があり、古地図を見ると本田氏在城当時までは「法印郭中仕切門」と呼ばれ、柳澤氏入城後は「久護門」と改名されています。

現在、この「久護門」跡にこの石碑があり、この石碑の真西に小さな池がありそこに美しい睡蓮の花が咲き、その辺に「合歓の木」があります。

この両面石仏は郡山城の法印郭の石垣修復の際に発見されたもので、片面に十王と地蔵が、他面には威形相の泰山府君がほぼ同じ大きさで刻まれており、日本石造美術史上貴重な史料だそうです。

制作されたのは、刻まれている様式から鎌倉時代後期らしい。
お地蔵さんの頭部がないのは非常に残念。

竹林門跡、本丸南側の入口にあたる。

天地の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波立たぬ世を
昭和天皇御製 柳澤神杜前

鰻堀池と石垣。

永慶寺、黄檗宗寺院で、山号は龍華山。
本尊は釈迦三尊。
旧地は山梨県甲府市岩窪町で、甲府盆地の北縁にあたる。

吉保は、江戸期に中国から伝来した黄檗宗を信仰し、永慶寺は黄檗宗による柳沢家の菩提寺として創建された。

この山門は郡山城の南門を移築したもので、現存する唯一の郡山城の遺構です。

安土桃山時代の城門建築様式を伝える門として、昭和50年10月2日に大和郡山市の文化財として指定されている。

境内には藩祖である吉保と夫人の座像が安置されていますが、拝観は出来ません。

黄檗宗の寺院らしく中国風の山門。

キリシタン殉難碑
長崎浦上のキリスト教信者の殉難碑です。

明治2年、大和郡山市に強制送致されたキリシタン86名の殉教者に敬虔な祈りを捧げるために立てられた記念碑です。

大正15年に良玄禅寺に立てられていたものを昭和44年に、この地に移されました。

大納言塚
天正19年(1591年)、豊臣秀長が大和郡山城において51歳で病没すると、兄の関白豊臣秀吉が秀長の菩提寺として大和郡山に大光院を創建しました。

しかし、元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、大光院はかつて秀長に仕えた家臣・藤堂高虎によって京の大徳寺に塔頭として移されました。

塚の前には、願をかけて持ち帰り、願いが叶えば返しに来る、という「お願いの砂」が…庶民の願いをよく聞いてくれた秀長さんならではの風習です。

秀長の位牌は大和郡山の真言宗東光寺(後の春岳院)に託されましたが、秀長の墓所は荒廃したといいます。
安永6年(1777年)、春岳院の僧・栄隆とその弟子・訓祥によってこちらの五輪塔が築かれ、墓所が整備されました。

大和大納言秀長という人
秀長(1540~1591年)は、豊臣秀吉の異父弟で、秀吉とともに戦国時代に活躍した武将です。

天正十三年(1585年)、和泉・紀伊・大和の及ぶ100万石を有し、郡山城主となり、郡山城の建設に本格的にとりかかるとともに、「箱本」という独特な町方自治を行い、城下の商工業を育成し、現在の郡山の基礎を築きました。

地元では、「学問の智将」と呼ばれ、今も市民に尊敬されています。
秀長なくしては秀吉の天下もないと言われるほどの優秀さで、彼が秀吉より長生きしていたら豊臣は滅亡しなかったのでは?・・・と言われます。

源九郎稲荷神社
「源九郎」とは「源義経」です。
9番目の子供だったので、「九郎」と呼ばれていました。

義経は兄の頼朝に疎まれて奥州で悲壮な最期を遂げますが、狐に変身して生き延びたという伝承から、各地に「源九郎稲荷」が建立されました。

狐の姿をした源九郎狐が宝誉という僧の夢枕に立って、郡山城に自分を祭ってくれたら城の守護神になろうと告げたので、それを聞いた秀長がこの地に稲荷を建立した、という伝承が残されています。

古くは日本三大稲荷の一つで、源義経が吉野に逃れた時に、途中で別れた静御前を、ここの白狐が守って送り届けたのだとか・・・。

薬園八幡神社
奈良時代、この辺りは平城京の南端に位置して、広大な「薬園」がありました。

「大仏の完成を擁護するように」との神託を奉じた宇佐八幡大神は九州からはるばる大和の東大寺へやって来て、現在東大寺境内にある「手向山八幡」となりましたが、その途中、一旦この地に祭られたそうです。

隣にあるお寺は薬園八幡神社の「神宮寺」でしたが、明治時代の神仏分離令で分割されました。

道の真ん中には、郡山城の外堀へと続く溝があって、昔はここで染物を洗いながしたそうです。
今は、金魚が泳いでいました。

箱本館「紺屋」
江戸時代、紺屋町は藍染め職人の集まる場所でした。
箱本館「紺屋」は染め物職人であった奥野家の家でしたが、これを改修して公開しています。

入口を入ると染め物に使った「紺壺」が埋め込まれています。
ここで「藍染めの体験」もできます。

大和郡山のマンホール蓋の図柄、市民に親しまれる下水道づくりの一環として、わがまちの地場産業である「金魚」が水槽で泳ぐ様子を図案化したものです。

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