冬の三千院

京都府
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三千院は天台宗の寺院で、山号は、魚山。本尊は薬師如来、開基は最澄です。
現在の名称は「梶井三千院門跡」となっている。

雪の三千院を訪れた時の記事です「雪の三千院もいいもんです」

三千院が大原にあって、三千院と呼ばれるようになったのは、意外にも新しく、明治4年(1871年)からです。

それ以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと呼ばれ、「梨本門跡」「円徳院」などの別称もあり、「円融房」が正式の寺名でした。

御殿門、城壁を思わせる高い石垣に覆われた立派な門で、大原・三千院の拝観入口になります。

寺号には、近江から洛中に、そして大原へ所在地が変転としたにもかかわらず、門跡寺院としての高い格式と、天台の法灯を千二百年の時を超えて、脈々と伝える歴史を秘めています。

入門すぐのところに伝教大師童形ご尊像があります。

寺伝によると、三千院は、延暦年間(782~806年)、伝教大師最澄が比叡山に根本中堂を創建したときに、東塔南谷の梨の大木の下に一字を構えたのがはじまりとされています。

大和坐りの阿弥陀三尊坐像。

来迎印を結んだ阿弥陀如来を中心として、右手に勢至菩薩、左手に観音菩薩が坐る来迎の阿弥陀三尊像です。
脇侍(きょうじ)の両観音は膝を少し開き、上半身を前屈みにしています。大和坐りと言われる珍しいものです。

平安時代後期を代表する三尊像です。(ウィキペディア)

宸殿南側の有清園の中にある杉苔で覆われた瑠璃光庭(るりこうてい)。

思わず顔もほころぶわらべ地蔵。

アングルが悪く、わかりづらいのですが、手前のわらべ地蔵さんは、地面に腹ばいになっていて、頬づえをついて、足をバタバタしています。

帽子のかわいいわらべ地蔵。 

ツルツルの坊主頭もかわいい。

朱雀門、南にある三千院(もともとは、往生極楽院)の正門ですが、普段より閉められたままです。
入口は西の御殿門からとなります。

大原の魚山は、仏教音楽である天台声明の発祥の地です。
その魚山を源とする呂川と律川の名前は、和楽の旋法に因んで名付けられました。                                                   
調子はずれを『呂律が回らない』というのもこの事が語源になっています。

三千院の北にあるのが、第82代後鳥羽天皇大原御陵(おおはらのみささぎ)と第84代順徳天皇大原御陵(おおはらのみささぎ)

承久三年(1221)、後鳥羽上皇は、子の順徳上皇と共に鎌倉幕府打倒の承久の乱を起こしますが、敗北して、後鳥羽は隠岐に、順徳は佐渡に流刑となりました。

尚、この時乱に関わっていなかった順徳の兄・第83代土御門上皇は、罪が無いにも関わらず、父や弟が配流されるのに自身が許されるのは耐え難いと自身望んで土佐へ配流されました。

また天皇に即位したばかりの順徳の皇子も廃されました・・以後九条廃帝と呼ばれ、明治時代に仲恭天皇と増名されています。

さて、後鳥羽は延応元年(1239)、順徳は仁治三年(1242)に夫々の流刑地で死去しましたが、その遺骨は大原の地に運ばれて埋葬されました・・この遺骨を埋葬した御堂が、現在大原陵の隣にある法華堂(大原法華堂)になります。

門跡寺院とはよく聞く言葉ですが、どのようなものか簡単にまとめてみました。

門跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・貴族が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のこと。

宇多天皇が出家して仁和寺に入室し御室御所と称し、御室門跡となったのが始まりである。

鎌倉時代初期頃からは皇族や摂家等の子弟が特定の寺院に出家するようになる(摂政九条道家の法助が初めて皇族でない御室門跡となる)。

これは、武家が実権を持ったために平安時代よりも経済力が低下した皇室や公家が、跡取りとなる長男や次男以外を出家させたためである。

医療の発達していなかった時代は、病気で子に万一のことがあり、家系が断絶することがないように、正妻の他に側室を持ちたくさんの子をもうけることが、上流階級の「家」の存続のために必要であったが、同時にそのことは冠婚葬祭で多くの出費を伴うことに直結した。出家すると婚姻しないため、結納・支度金・婚礼費用等の直接的な出費の削減になるだけでなく、子を作らないため、宮家や別家を作ることがなく、家として大幅な経費の節減となった。

なお、家に残った跡取りに万一のことがあれば、出家した子弟のうちの選ばれたものが還俗して家を継いだ。

江戸幕府は、天皇家に親王がたくさん生まれることを恐れた。

それらが俗体のままでうろうろしていたりすると、南北朝のころのように「宮」を奉じて挙兵するという酔狂者が出ぬとも限らず、このため原則として天皇家には世継ぎだけを残し、他は僧にし、法親王としてその身分を保全したまま世間から隔離することにした。

これが明治政府によって廃止され、宮門跡である法親王たちは還俗させられてそれぞれ浮世の宮家を創設した。

彼らが出て行った寺のほうはふつうの出身の僧が住職になるようになったが、明治18年、内務省から門跡号を称することを許された。

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三千院へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都市左京区大原来迎院町540

電話: (075)744-2531

京都バス洛北・大原方面行き「大原」下車徒歩10分