兵どもが夢のあと 関ヶ原合戦地をゆく

名城の旅
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天下分け目の関ヶ原、用意周到、細心の注意で臨んだ家康と、自分の才能を頼み、策におぼれた三成の戦いでした。

家康は関ケ原合戦早朝に、赤坂から桃配山に兵を移動し、桃配山の中腹に陣を敷きました。
この山は、関ケ原合戦以前の壬申の乱にて、勝者である大海人皇子が野上行宮より出陣し陣を敷いたという言い伝えがあります。

家康は縁起を担ぎこの場所に陣を置いたといわれており、関ケ原の合戦時に徳川家康が使用したとされる腰掛石と机石が今も残っています。

百配山 徳川家康本陣古址の碑が建つ。

壬申の乱の時、大海人皇子に村人より山桃が献上されました。
大海人皇子は、その山桃が非常に美味であったので、兵士の士気を上げようと大量に購入し配りました。

その故事により「桃配山」と名づけられました。

合戦時に徳川家康が使用したとされる腰掛石と机石。

中山道を福島正則陣所跡へ向かう。

春日神社という神社の境内に「福島正則陣跡」があります。
福島正則は、秀吉にかわいがられていた大名でありながら関ケ原の戦いでは東軍に参加しました。

その最大の理由は、三成に対する憎しみによるものだったといわれています。

境内にそびえる樹齢800年の「月見の宮大杉」は関ケ原合戦屏風にも描かれています。

福島正則陣所古址の陽が建つ。

名神高速道路の下をくぐり、松尾山の小早川秀秋陣所跡へ向かう。

新幹線のガードを通り越します。

小早川秀秋の違い鎌の幟が建つ中を頂上を目指す。
1.4㎞、約40分の工程です、かなりきつく、喘ぎながら登る。

松尾山は浅井長政築城の「松尾山城」、いたるところにこのような堀切等の遺構が残る。

頂上に幟が見えてきました、最後の胸突き八丁です。

松尾山 小早川秀秋陣所古址の碑が建つ。

秀秋は西軍を裏切ったと言われているが・・・・・

秀吉の養子になりながら小早川家に養子に出された秀秋は、秀吉を相当恨んでいたことは否めない。

秀秋には、忘れられない出来事があった。

朝鮮出兵の折、秀秋は奮戦して手柄を立てたのだが、秀秋の評価が高まることをおそれた三成が秀吉に対し、「秀秋は大将のくせに足軽のごとく、自ら敵陣に突入して敵を斬り伏せる行為を行った」という讒言に近い報告をした。

秀吉は激怒して、帰国した秀秋を叱責。
秀秋は秀吉から褒められるとばかり思っていたら、ひどく叱られショックを受けた。

それが三成の報告のせいだと知った秀秋は、「治部少(三成)を出せ!」と大坂城内で騒ぎ、出てきた三成に本気で斬りかかろうとしたのである。

その場にいた家康がなだめて、秀秋を屋敷に連れ帰った。

するとそこに、追い討ちをかけるように秀吉の使者がやってきて、「秀秋の所領である筑前・筑後52万石を取り上げ、越前北庄15万石へ転封する」と言い渡されたのである。

秀秋は再び怒り狂ったが、家康が秀吉からの使者に、「『秀秋は仰せを承りました』、と言上願います」と告げてなんとか取り繕い、その後、家康は秀吉に話を通して、52万石取り上げの件はうやむやになったのである。

かつて、斬り殺そうと考えた三成。
所領を大幅に減らされそうになって、それを助けてくれた家康。

どちらに親しみを感じるか、言うまでもない。

松井山城の遺構を整備した山頂からは関ヶ原の全容が手に取るように見える。

陣を構えたのは東軍・西軍の配置が一望できるということもあるが、元々この地には南北朝時代から戦国時代の城である松尾城があり、布陣のさいにその跡を利用したという。

現在も土塁、主曲輪、曲輪などの跡が残る。

1600年 慶長5年9月15日 午前8時 開戦時の陣形の図。

違い鎌の幟を見ながら下山する。

農具の鎌をかたどったこの紋は、諏訪明神の信仰に基づくもの。
鎌を諏訪明神の神体として、これを信仰する人々が家紋としました。

また、敵をなぎ倒す尚武的な意義をもち、小早川氏は豊臣秀吉より桐紋を授与されていたものの、勝兆を祈願してこの鎌紋を使ったとされます。

関ケ原町歴史民俗資料館は、大きな白い建物と立ち並ぶ武将の陣旗が目印です。
常設展では、「関ケ原合戦図屏風」をはじめ、合戦に関わる武具(甲冑・大筒・火縄銃・ほら貝など)を公開しています。

午前10時頃に家康公は、より戦況を把握するために桃配山を発して、西へと兵を進め、関ヶ原宿の東(のちの陣場野)に陣を移した。

桃配山で指揮を採っていた徳川家康でしたが、どうしても戦況は変わらず、クズグズしていると内応を約束した松尾山の小早川秀秋、動かないハズの南宮山の毛利秀元らもひょっとすると東軍に襲いかかってくるかもしれません。

その恐れもあったのか、全軍を鼓舞するという意味で桃配山から軍を前線に進めます。

その地が陣場野(じんばの)です。

陣場野には独特の土盛で四角く囲われていますが、これは江戸期も後期の寛政年間に幕府の威信回復のために地元の(旗本)竹中氏に命じて作らせました。
いわば戦後勝利を裁断すべく首実験をした場所です。

二回目の首実検場でもある(一番首は桃配山、最後は藤川台)。

決戦地をめざしてすすむ、手前の幟が決戦地、奥の幟が三成の陣地跡。

笹尾山を背に、現在は田園の広がる中程に「決戦地」があります。
ここには大きな石碑、徳川家・石田家の家紋入りの旗があり、休憩所もあります。

1600年9月15日午前、関ケ原の戦いは西軍有利の展開で進んでいたといわれています。
しかし、小早川秀秋の裏切りによって状況は一変します。

これによって、一挙に東軍が優勢となり、奮闘むなしく西軍は敗北します。
そしてこの決戦地は、東軍諸隊が三成の首級を狙って、最大級の激戦が繰り広げられた場所といわれています。

決戦地北西に位置する小さな山が笹尾山で、「石田三成陣跡」の碑があります。
合戦時に、敵の攻撃からの防御として使われた竹矢来・馬防柵が復元されているこの場所。

合戦当時、“三成に過ぎたるもの”といわれた、島左近を竹矢来の前に配置し山頂で指揮をとったようです。

三成の陣地、笹尾山頂上を目指す。

石田三成”が陣を構えた笹尾山の陣跡地は、入口付近に馬防柵が築かれ、頂上付近には展望所が設けてある等の整備がされています。

家康の陣場野も目の前だ。

石田三成陣地の碑がたつ。

おのれの才能と手腕におぼれた石田三成

彼の敗因の第一は挙兵の総氏に秀頼をいただかなかったことに尽きる。
家康の周辺にあまりにも反石田が固まりすぎていた。

彼は才能もあり能吏であったのは事実だか、戦略家としては評価できない。

家康が大阪を発向して、近江水口に到着する前のことである。
三成の謀臣島左近が三成に進言した。

「今夜、家康は、水口に泊まるそうです。
すぐさま、家康の館に、夜討ちをかけたらどうですか?」

三成はそれを聞いて、「それにはおよぶまい。かねて長束とは示し合わせておいたから、彼が水口で謀(はかりごと)をおこなうだろう」

と答えた。島は納得せず、「天狗も鳶と化せば蜘蛛網にかかる譬えもあります。今夜の機会を逃さず、ぜひ決行なされ」

とすすめたが、三成は愚図ついている。

そこで島は、地震で3千人をひきい、水口の近く、芦浦観音寺あたりから、大船二十余艘を調達して水口まで押し寄せた。

すると、家康は、水口には泊まらず、その夜の内に通過したと聞き、島は地団太を踏んで引き返した。

この三成の優柔不断さを、あとで大谷刑部が大いに批判している。

また、一人でも謀を事前に打ち明けると、たちまち計画が暴露するという懸念は、三成の深慮だが、その過度な深慮のために、かえって組織づくりが弱くなっている。

三成は自分が蹶起すれば、当然、アンチ家康や豊臣恩顧の大名たちが、翕然(きゅうぜん)と集まってくると予想していた。

その辺が彼の戦略の甘さ。

彼がひたすら、直江兼続や安国寺恵瓊のような、策士とばかり連絡を取っていたのも、彼自身が策士ゆえか、あまりに相手個人の力を過大視し、大事な統制を失ったと言えるだろう。

新たに建てられた、島津隊陣跡の大きな石碑
これは、昭和15年に建てられました。
鹿児島産の石を使っているそうです。

大垣に居た三成は、東軍に備えて、大坂から来ていた島津義弘を墨俣まで進めさせ、自分も小西行長といっしょに兵三千余人を率いて、大垣城から清州街道にある沢渡村まで出張っていた。

ところが、岐阜城が東軍のために落ちたと聞いたので、三成は、島津義弘を墨俣から呼び戻し、小西行長といっしょに今後の処置を協議した。

そこに敗報が続々と入ってくる。

三成はすぐ退却を主張したが、義弘は、自分の部隊を墨俣に残しているので、この兵を収容した後でなければ退却は出来ないと反対した。

三成は義弘を捨てて大垣に向かって退却した。
義弘仕方なく伝令を墨俣にある舞台に馳せて、その退却を命じた。

さいわいに東軍は島伝いを攻めてこなかったので、部隊は損傷することなく無事、大垣城に入ることができた。

こういうところが、三成の人望を落とす所以かもしれない。

もし、三成が義弘の窮状にみずから命を賭す覚悟で同調したなら、義弘も西軍のために命まで捧げる覚悟になったかもしれぬ。

事実その後、三成が自ら各部隊を駆け回って戦闘参加を懇願したが島津義弘は追い返している。

1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原の戦い。
東西両軍17万人余の将兵が入り乱れるなか、孤立した島津義弘は壮烈な退却戦を敢行する。

有名な「島津の退き口(のきぐち)」だ。
戦法は「捨て奸(すてがまり)」。

陣最後尾の小部隊が追撃する敵と戦い、全滅すると次の小部隊が抗戦して敵を足止めにし、その間に本隊を脱出させる。

将兵に生き残る望みはなく、ひたすら味方を退かすためだけの捨て身の戦法だ。
5度にわたる「捨て奸」の末、島津隊約1500人のうち80人余が奇跡的に薩摩へ生還できた。

この「戦国合戦史上の奇跡」をもたらしたものは、島津家、主従の鉄の結束だった。

それにあやかって、毎年夏になると、薩摩の人たちがここにやってきて、3泊4日をかけて、ここから大坂までの約120キロを歩くそうです。

その参加者たちは、『関ヶ原戦跡踏破隊』 と、呼ばれています。

これは、島津隊の逃避コースを体験するもので、かなり過酷らしいです。

北天満山を背にした西田運動広場の入口に、「開戦地」の大きな碑があります。
合戦当日の朝、霧が薄くなったのをきっかけに松平・井伊隊が、先峰の福島隊の脇を通り抜け、宇喜多隊の前へ進出し発砲。

この井伊隊の抜け駆けに怒った福島正則が、宇喜多隊に対して一斉射撃を掛けたのがこの場所であるといわれています。

西軍の主力となった宇喜多秀家の戦意はどの武将よりも高く東軍諸隊を度々蹴散らした。敗戦後、秀家は薩摩へ逃れた後に江戸幕府の手により八丈島へ流された。

病魔に冒されつつも盟友石田三成のために散った大谷吉継の戦いぶりは今も語り継がれている。
陣地跡近くにある吉継の墓は今も献花と線香の香りが絶えない。

大谷吉継墓の碑。

三成が大谷刑部に計画を打ち明けた時の刑部の驚きようがおもしろい。
「それはまことに不都合な考えである。貴殿は諸人に憎まれ、すでに切腹の時それがしが種々の方便をなして家康に乞い、いままで無事に過ごしてこられたのだ。

いままた、ここで事をおこさば、去年の意趣のやからは大敵となるべし、家康はいまや三百石にもおよぶ大名であるから、人数は多く、人心を得ている。

しかるに、貴殿はわずかの禄高であるら、人を動かすことも意のままになるまい。」

「貴殿がかような大事を上杉の家来の直江などに相談されたのを、今日までわれらに隠しておられたことは、まことに不本意である。
しかし、いまは、そのことをとやかく云うわけではない。

ただ、このような大事となれば、貴殿に対して、二つほど申し入れたい儀がある」

「総じて貴殿は、諸人に対して、ことのほか横柄であるという評判で、諸大名はじめ末々のものまで、日頃から評判がよろしくない。
ところが、家康は、その家柄といい、官位といい、さらに日本には並びなき大身であるのに、諸大名に向かっては云うに及ばす、小身の者までも、会えば慇懃にいたし、それぞれ言葉をかけ、愛想を尽くすので、まことに評判がよろしい。

されば、この度の大事も、毛利輝元、宇喜多秀家両人を頭に戴き、貴殿がその下についてことを計らなければ、成就はおぼつかないとおもう。

貴殿の知恵、才覚は抜群であるが、ただ一つ勇気の点が不足しているように思われる。
たとえば、家康が関東に下向する途中、石部に泊まった時、これを夜襲し、焼き討ちをかけたならば、疑いもなく勝利を得たはずなのに、さような機会を、ゆるゆると構えて、家康を関東に逃がしたのは、虎を千里に放したも同様で、大きな油断と申すもの、これすなわち、貴殿に決断のないところである」

しかし、結局はこれまで多年の三成との交誼を考えると彼が気の毒になり、ここに翻然と三成の側に投じる決心をする。

吉継の占いでは、三成必敗と出ていたにちがいない。
それを承知の上で、吉継は三成の帷幕(いばく)に参じたのである。

関ヶ原の戦場巡りも終わりに近づいたころ、陽も西に傾く、静かに眠れ兵ども。

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