全国最強の軍団と奥の細道の終点 大垣城

織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移った後、1583年(天正11年)に池田恒興が城主となり、1588年(天正16年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の配下の一柳直末によって若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれたとされる。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、当時城主であった伊藤盛宗は西軍に属したため、石田三成らが入城して西軍の根拠地となる。

その後、西軍本隊は関ヶ原に移動、城内には福原長堯らが守将となって残るが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城。

そのときの逸話が『おあむ物語』として残っている。

江戸時代に入り、徳川家康は譜代大名として石川康通を城主にし、その後1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった。

住吉燈台の対岸に建つ松尾 芭蕉と谷木 因の像

谷木因 (たに・ぼくいん)

江戸前期の俳人。
美濃国(岐阜県)大垣の人。
船問屋を業とする富裕な商人であった。

俳諧は北村季吟の門人であるが松尾芭蕉とは早くから親交を結び、現存の芭蕉の書簡の中では、延宝9(1681)年の木因宛のものが最も古く、ふたりが心を許し合った友人関係にあったことは当時の書簡からうかがえる。

貞享1(1684)年には旅中の芭蕉を自宅に迎え、桑名まで芭蕉に同道した。
ただし,芭蕉が交わろうとしなかった井原西鶴やその弟子北条団水とも交わり、菅野谷高政、大淀三千風を迎えるなど、交際の範囲は蕉門に限らなかった。

美濃俳壇は斎藤徳元や岡田将監によって芽生えたが、大垣俳壇は地元の指導者谷木因を得て、貞門・談林の風潮に触れて成長してきた。

俳人には藩士が多く、藩侯の文教奨励もあって盛況を呈した。
指導者谷木因の人徳がしのばれるところである。

大垣俳壇が、真に文芸的価値に目覚めて隆盛期に向かうのは、俳聖芭蕉が四度にわたって当地を訪れ、蕉風の新風を吹き込んでからであろう。

この芭蕉来垣の経緯にも谷木因の力が大きく働いていることは言うまでもない。
そして、これを機に、蕉風俳諧が美濃一円を風靡するに至るのである。

「奥の細道」むすびの句の石碑・蛤塚

蛤の ふたみに別 行秋そ

伊勢の二見へ向かうため、親しい大垣の人々との別れを惜しんだ、むすびの句です。

伊勢の名産・蛤を「二見」の枕詞のように置き、「ふたみ」は、地名の「二見」に、蛤の「ふた」と「身」の意味をかけています。

奥の細道の旅を終えた松尾芭蕉が桑名行きの舟に乗った船町の川湊が国の名勝に指定された。

揖斐川や水門川、杭瀬川など多くの川が流れる大垣市。
江戸時代から明治時代にかけて、まちの中を流れる河川を利用した水運交易が発達した。
特に川湊として栄えたのが、船町港と赤坂港。

船町港は水門川の川湊で、美濃路に面する通りには常滑方面から運ばれた大量の瓶や土管が積み上げられ、「瓶町」とも呼ばれていた。

川湊の風情を今なお残している船町港跡には、瀬取船(大型船から荷物を受け取る細長い川船)が浮かび、県指定文化財の住吉燈台がたたずむ。

寄棟造の住吉燈台は、元禄年間(1688〜1704年)に建てられたと伝えられ、現在のものは、明治20(1887)年に再建されたものである。

かつては菜種油で火を灯し、行き交う船の目印として活躍した。

四季の広場
水門川に整備された水と緑の都市公園。

かつて大垣城の外堀だった水門川には、デザインの異なる橋が20以上も架かり、多数の錦鯉が泳いでいる。また、季節の自然が楽しめる「四季の路」も。

水門川は大垣と桑名を結ぶ運河です。
永禄4年(1561)大垣城主氏家直元が、城池改築のさい開削したと伝えられています。

水運の要路で、明治16年には大垣、桑名間に定期汽船が開通し、大いに栄えました。

清流に生息する梅花藻(バイカモ)も見られます。

奥に西門が見える。

戸田氏鉄公騎馬像越しの大垣城。

西門

戸田氏鉄公騎馬像、大垣藩初代藩主、「戸田氏鉄(とだ うじかね)公」です。

城内は庭園化してしまっています。

杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、慶長5年9月14日(1600年10月20日)に行なわれた戦い。

関ヶ原の戦いの前哨戦にあたり、この戦いは局地戦であったが、西軍が大勝した。

9月14日、東軍の総大将である徳川家康が美濃赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に大軍を率いて到着した。

このため、西軍の中で動揺が走るようになり、一部の兵士の中には逃亡する者も相次いだ(もともと西軍は東軍以上に寄せ集めの軍勢だったために、団結力が乏しかったとされる)。

事態を憂慮した石田三成の家老・島清興は戦勝による士気の回復を進言。
東軍に奇襲攻撃をかけることにした。

杭瀬川は、大垣城と赤坂の中間部にある川であり、周辺には森林が生い茂っていたとされているが、島清興はこの中に一隊を伏せて伏兵とし、残る部隊で対岸へ渡り、東軍の中村一栄隊の前で苅田を始めた。

この挑発に中村一栄隊の将士が乗って小競り合いが始まり、まもなく有馬豊氏隊も参加して乱戦となった。

島清興はある程度戦うと、敗れた風を装って退却をはじめ、両隊を釣り出す事に成功。
追撃した中村・有馬隊は伏兵の横撃を受けて壊乱状態に陥り、さらに宇喜多家の明石全登が参戦して両隊は大被害を受けて敗走。

このとき、中村家の家老・野一色助義が戦死するなど、40人ほどが西軍によって討ち取られたという。

こうして、前哨戦は西軍の大勝に終わり、9月15日の関ヶ原本戦に向かっていくことになる。

再建大垣城 天守鯱瓦。

東門

美濃路大垣宿本陣跡

江戸時代、かつて大垣は大垣藩戸田家十万石の城下町として名を馳せていましたが、美濃路大垣宿の宿場町としても栄えていました。

大垣宿の竹島町には本陣が建造され、宿泊施設としてだけではなく文化人の交流施設としても利用されていました。

現在は、大垣宿本陣跡附明治天皇行在所跡として大垣市の史跡に指定されています。

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大垣城へのアクセス、行き方歩き方

住所:大垣市郭町2丁目52番地
電話:0584-74-7875

JR大垣駅南口から徒歩7分