五條新町通りの露地散策

古民家
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五條を倶楽部の撮影会で訪れた。
滅びゆく街に美しさを求める面々で、自然足は路地に向かう。

五條新町通りやその周辺には江戸時代(17世紀初頭~18世紀)に建てられた町家が集中していて、今なお当時の面影を残す。

空き家が増えているようだ。

家の中まで草が生え、びっしりと詰まっているさま、今では芸術的だ。

この辺りは数年前までは人も住んでいたようだが、今ではもぬけのから。

しばらくは芸術的価値を保っているがそのうち見るも無残に姿に・・・・

タバコ屋さんの跡、看板が懐かしかったり素晴らしかったり。

橋の下にお地蔵さんが、これは表現次第でものになりそうだ。

本陣交差点の周辺(ここが本来の「五條」)は御霊神社を中心に発達した区域で、五條代官所が置かれるなど、古くからの町の中心地だった場所です。

国の重要文化財に指定されている、栗山家住宅もここにあります。

主に古い町並みが残っているのが、国道24号線と168号線、310号線が交わる本陣交差点の南側(新町口)の辺りから、新町通りを1キロほど西にずっと進んで、大和二見駅の東側辺りまでの一帯です。

平成22年には重要伝統的建造物群保存地区 に選定されました(全国で88番目)。

そろそろ空腹感を感じるが気の利いた店などあるはずもない。

少し歩くと柿の葉すし本舗たなかがある。
国道24号線・本陣交差点を西へ100m。
おいしい柿の葉寿司に舌鼓を打った後は午後の撮影だ。

近代国家を夢見た男たちの見果てぬ夢の跡
幕末の風雲急を告げ、攘夷倒幕の嵐がふきすさぶ中、文久3年(1863)8月13日、尊王攘夷の断行を神武山陵に祈願するための大和行幸が朝議で決まりました。

当時、京都の政局は尊王攘夷派が握っていて、彼らの一部には、これを機に一挙に倒幕をはかろうとする動きがありました。この機をうかがっていた倒幕急進派の中山忠光、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂らが皇軍の先鋒となるため、翌14日京都を発ち、千早峠を越えて当時幕府の直轄地であった五條に入りました。

8月17日、天誅組志士30人は一斉に挙兵し、五條代官所を襲い代官鈴木源内を殺害、櫻井寺を本陣として、五條新政府を号し、倒幕の旗を揚げました。ところが翌18日、朝議は一変して攘夷派が敗れ、大和行幸は中止。ここで天誅組の義挙はその大義名分を失ってしまいました。

その後、天誅組は十津川郷士960人の来援を得て、高取城に侵攻しましたが撃退され、大日川、広橋、栃原、下市口と吉野各地で転戦するも追討軍は1万人を超え、内部の対立、十津川郷士の離反もあり、翌9月24日、東吉野村鷲家口に於いて決死的斬り込みを敢行して終わりを遂げました。

天誅組の義挙は幕末における下級武士と豪農豪商とが一体となった最初の武装反乱で、倒幕及び明治維新の魁としてたたえられる歴史的なものであります。明治維新が実現するのは、このわずか5年後のことでした。

路地に入り作品になりそうなターゲットを探す。

蜘蛛の巣なんかも好物だ。

通りに立ち並ぶ町屋はもちろん、所々の情緒ある路地から眺める新町通りの様子も風情があります。

五條では新町通りが有名ですが、そこから一本入った裏道にも雰囲気のある通りがあります。
なかなか五條も奥が深いですよ。

この道幅が実に旧街道筋らしい雰囲気を醸し出してます~

蔵に挟まれた路地。

五條の裏小路をあるく。すてきな雰囲気。
なんとすばらしい一角。

こういうものにも芸術性を感じたり・・・・

重厚な感じでいいねぇ。

川沿いにお地蔵さんがあり、箸もツタが絡まっていい感じ。

瓦も古いものは手入れをされていてそれなりにいい感じを醸す。

さびたトタン。いいですねェ。

奈良県の中部に位置する五條・新町は、伊勢街道などが交わる地点に発展した宿場町です。
 
吉野地方の中心として代官所が置かれ、ごく短期間存在した「五條県」の県庁所在地だったこともあります。

まちや館、市口薬局さんの前から。うねる新町通り。
奥に見えるのは酒蔵・山本本家さん。

五條新町(ごじょうしんまち)は、奈良県五條市の五條新町通り(伊勢街道)界隈に位置する重要伝統的建造物群保存地区の名称である。

慶長13年(1608年)に筒井氏の家臣であった松倉重政が二見城城主に封じられて五條・須恵を領し、五條と二見の間に形成された新町村を町場として発展させた城下町を起源とする地区で、新町村は東・中・西町からなり、元和9年(1623年)には約95軒の家があり、現状の約110軒と大差がない町並みが形成されていた。

現在、当地区内の建造物330棟のうち143棟が伝統的建築物として特定されている。

奈良五條 新町通り 一棟貸しの宿|旅宿 やなせ屋。

さて、五條という地名だが、その由来にはいくつかの説がある。

一つは、「宇智川、内の川、西川、東浄川、寿命川の五つの川があったから」というもの。

もつ一つは、「旧紀州街道、伊勢街道、西熊野街道、河内街道、下街道の五つの大きな道があったから」。
また、「御霊神社」の読みが、「ごりょう」から「ごじょう」に転じたという説もある。

整備はされていますが電柱や電線は敢えてそのまま残したのでしょうか?…、

それとも予算的なものでしょうか?~、いずれにせよ旅情的な趣きのある景観です。

商いをしていた町家には、通りに面して設けられた格子の形にも特徴がある。

多くの町家に、間隔が広い格子、狭い格子、その中間にあたる幅の格子と、3種類の格子が存在している。
幅が広い格子は店先部分にあたり、その奥に並べられた商品が見えやすい構造に。

また間隔が狭い格子の向こう側は住居部分にあたり、生活の様子が通りから見えにくいようになっている。

そして、店先部分の格子と住居部分の格子との、ちょうど中間ほどの幅の格子は、勘定をする帳場に用いられた格子である。

幻の五新鉄道

明治時代の末頃、五條市から十津川村を経由し、和歌山県新宮市までを結ぶ「五新鉄道」の計画が持ち上がった。
このルートの沿線は吉野杉をはじめとした木材の産地で、それらを鉄道を使って輸送する予定だった。

工事は昭和12年(1937年)に開始され、吉野川を横断する橋の橋脚部分や、生子トンネルの貫通にまで至ったが、太平洋戦争がはじまり、物資不足等の理由でやむなく工事は中断される。

戦後、工事は再開され、昭和34年(1959年)には五條と西吉野村城戸までの路盤工事が完了。
五條・城戸間では軌道の設置を残すのみだったが、経済や社会情勢等の変化により、五新鉄道は実現することなく完全な中止が決定された。

慶長13年(1608年)、松倉重政がこの地に一万石で入部し、二見城を築いた。

五條市二見5丁目の妙住寺がその城跡である。
城と五條の町場とは離れており、この間を結ぶ道沿いに発達したのが新町である。

松倉重政は元和2年(1616年)に肥前日之江城へ転封となり、二見城は廃された。
以後の五條新町は天領となり、商家町として発展する。
寛政7年(1795年)には五條代官所が置かれた。

この細い路地の向こうの景色、何とも言えないね。

五條新町通りには、首無地蔵尊という興味深いお地蔵さまがいます。
この地蔵さまは、善通寺にまつられていましたが、ある日心無い者によって首から上を取られ、庄下川に捨てられてしまいました。

以後、首のない地蔵様として「首無地蔵尊」と呼ばれるようになりました。
ある漁師が地蔵さまの御首を網で偶然見つけ、信仰心から家に持ち帰りました。

地蔵さまは漁師に夢で現れ、「善通寺に返してくれれば、首から上の病を治してみせよう」とお告げされたそうです。
その後、地蔵さまの御首は胴体に戻り、地蔵堂が建立されました。

病気や老人ボケなど、首から上に関する願い事で多くの人々がお参りしているといいます。
また、五條市新町通りは伝統的な家並みが残る地域で、紀州街道に面しています。

たくさんの発見がありました、帰宅したらレタッチして作品に仕上げる工程が残っています。
しばらく楽しめます。

江戸末期に建てられた旧辻家住宅(政治家の木村篤太郎生家)が、「五條市新町まちや館」として整備されていて、内部を見学することができます。
この見学記は別途記事にします。

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