久宝寺という地名は知っているし、過去何度も車でとおったことはあるが歩くのは初めてだ。
久宝寺は緑地のイメージが強く、寺内町が残っていることは全く知らなかった、お恥ずかしい。
この地の氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていました。
なお渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれています。
社名は「コマ」と読み、昔、この地は「許麻荘」といわれ(南西に跡碑がある)、高麗からの渡来民族が多く住んでいました。
式内社で、もと牛頭天王、渋川六座の1です。
境内の手洗いの屋形は、昔の宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りです。
この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代焼失し、その後観音院のみ復興、明治初年廃寺となりました。
江戸時代から明治時代にかけて、河内地方で広く栽培されていた綿から手紡ぎ、手織りされた綿布は、山根木綿(高安山麓)、久宝寺木綿、三宅木綿(松原市)などの名で知られていました。
これらを総称して「河内木綿」といいます。
河内地方では、16世紀末頃から綿作が行われていたようですが、その生産が飛躍的に伸びたのは、1704年の大和川付け替え以後のことです。
旧川床を利用した畑は、砂地で水はけがよく、綿栽培に最適だったためです。当時の綿は繊維が短く、従って糸が太いため、織りあげた布地も厚くて耐久性にすぐれていました。庶民の普段着のほか、のれん、のぼり、蒲団地、酒袋などに利用され、全国各地で愛用されました。
しかし、明治に入り、機械化による安価な紡績糸や化学染料が出回り始め、輸入綿の関税が撤廃されると次第に姿を消していきました。
長い間忘れ去られ、まぼろしとまでいわれた河内木綿ですが、近年、河内木綿を愛する多くの人々の手によってその技術が復元・継承されています。
2003年、ロシア国立エルミタージュ美術館で「河内木綿特別展」が開催されました。
NPO法人河内木綿藍染保存会が中心となって復元した作品や、八尾市の旧家に残されていた資料などが展示され、訪れた多くの人々を魅了しました。
河内木綿は、郷土の誇る伝統工芸として新たな脚光をあびているのです。
江戸時代からの古い町家も数多く残っていて、寺内町としてのまちなみの歴史的な雰囲気や景観を長く残すために、八尾市では町家や街路、公園等の保全整備事業、小学校体育館や消防団屯所の修景整備、水路の修復、まちなみセンターの建設等を進めて来ました。
消防団屯所の火の見櫓は遠くからでも見え寺内町のシンボルです。
表町通(八尾街道)と大水路との辻にあり、辻には金刀比羅宮の柱石が置かれています。
札之辻地蔵尊は室町時代末期の石仏です。
寺井戸跡
花崗岩角形の井げたの上部は、甚だしく摩耗している。
後側に“天保十四年癸卯閏九月造之”とある。
内側はまるい井戸側で、溜井戸である。
久宝寺御坊が、顕証寺新田の旧大和川底に元井戸を構え、竹樋を埋めて、ここに引水し、村民の飲用水をまかなった。
村では水代として1軒あたり年1升宛の米を御坊に納めた。
古くは屋形をくみ、夜には鍵がかけられていた。
大正12年簡易水道が設けられるまで、村内唯一の上水であった
越前分光堂
久宝寺寺内町で産声をあげたのが100余年前。
なんと店の奥には歴史ある看板が!
古くは文具店を営んでおりましたが、現在に いたるまで教科書の取扱いをしている。
室町時代後期に顕証寺を中核とする寺内町として作られて450年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りを残しているだけですが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されていて、歴史的価値が注目されています。
久宝寺寺内町の成立
蓮如上人が手がけた久宝寺のまちづくりは、蓮淳に至って完成されました。
寺内町の成立は天文10年(1541)12月15日で、天文日記に「久宝寺、西証寺之制札認来候」と書かれていて、その内容は不明ですが、寺内町としての特権を得ています。
以後、町は人家も増え経済活動が活発となり、当時の代表的な自治組織として繁栄しました。
久宝寺寺内町を守った土居と濠
享保10年(1725)、顕証寺は南側に拡張されました。
現在ただ一ヶ所、顕証寺南辺に残る土居跡は、この時の工事で新しくつくられたもので、久宝寺の貴重な歴史的遺産です。
濠は、久宝寺小学校の西裏地にその名残りがみられます。
久宝寺寺内町の終焉
石山合戦で、大坂をはじめいくつかの寺内町は焼失し消滅しました。
焼失を免れた所もその後の大名による検地で、寺内町として認められていた特権がなくなり、農村部に成立した商工業集落と言われる在郷の町に変容していきまた。
久宝寺寺内町の支配権を返上
久宝寺寺内町は慶長17年(1612)検地を受け支配権を返上し、寺内町としての特権をなくしました。
一般的に、寺内町が存在していた期間は100年余に過ぎなかったと言われていますが、久宝寺の場合は70年余でした。
近世の久宝寺
久宝寺は旧大和川や八尾街道の傍にあったことから、水陸の交通の要衡として栄え、また久宝寺木綿の生産地として木綿商人が活躍する農村部における商業地でもありました。
とくに宝永元年(1704)の大和川付替えによって新しく開発され顕証寺新田、三津新田では綿つくりやその肥料となる菜種つくりが盛んになりました。
旧大和川である久宝寺川(長瀬川)の常水が減少し、船の運行に支障を来たすことが多くなり、次第に商業活動は下降して地域の中心は八尾に移っていきました。
高田家は、江戸時代には油屋と号し、久宝寺村の庄屋を務めてきたため、村に関する貴重な文書等が多数伝わっています。
顕証寺(けんしょうじ)に通じる東西の通りに面する主屋(おもや)は、屋敷構えを出格子(でこうし)と虫籠窓(むしごまど)で整え、瓦葺きの米蔵は屋敷の東側に建てられています。
本住宅の周囲は碁盤目状の町割りがみられ、寺内町の歴史的な景観を残す貴重な建物であることから、平成20年3月に主屋と米蔵が国登録有形文化財となりました。
初めて久宝寺の街を歩きました。
商業活動は八尾に移ったとはいえ街には古い文化財も多く残り、魅力ある街です。
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