三成陣跡 笹尾山砦跡

東海
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決戦地北西に位置する小さな山が笹尾山で、「石田三成陣跡」の碑があります。

合戦時に、敵の攻撃からの防御として使われた竹矢来・馬防柵が復元されている。

合戦当時、“三成に過ぎたるもの”といわれた、島左近を竹矢来の前に配置し山頂で指揮をとったようです。

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笹尾山のふもとから5分程階段をのぼります。

石田三成陣跡碑が建つ。

三成布陣地。

三成布陣地から見ると中山道が東西に走り、伊勢街道が南へ伸びている。

家康が最初に布陣した桃配山は画像の左端、左の高い山が南雲山、毛利秀元が布陣。

中央やや左下に見えるのが決戦地。

中央の高い山の前にある山が小早川秀秋が布陣した松尾山。

その麓のあたりが開戦地。
手前を北國街道か東西に走る。

最新の研究では、関ヶ原合戦における石田三成の布陣地が笹尾山ではないことが見えている。

当時だけでなく江戸時代の文献を見渡しても、三成が笹尾山に布陣したとする記録は、良質の史料は疎か通俗本にもないのだ。 

関ヶ原関連の現地を巡り、文献を博捜する高橋陽介氏は、関ヶ原に従軍した戸田氏鉄の記録『戸田左門覚書』に注目した。

そこには「治部少(=三成)本陣は松尾山の下、自害か岡と云所に陣す」とある。

同書によると、石田三成は「自害が岡」に布陣すると言い出したという。

すると、現地の者から「ここは地名が不吉だからやめましょう」と意見されたとも記述されている。

しかし三成は意見を容れなかった。

このやりとりはおそらく事実だろう。

「自害か岡」は、現在の「自害峰」(関ケ原町大字藤下)で、笹尾山より2〜3キロメートルほど南にある。

すぐ近くには若宮八幡宮がある。
そしてここは小早川秀秋が布陣したという松尾山の目の前だ。

高橋氏は論文『城』(東海古城研究会機関誌)の第224号に掲載された論文「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地「自害峰」遺構に関する調査報告」において、自身の見解を説明した。

なお、三成布陣の地が笹尾山ではないとするのは、かれだけではない。

細部では高橋氏と異なるが、別府大学の白峰旬教授も笹尾山布陣に否定的である(白峰旬「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈 : なぜ大谷吉継だけが戦死したのか」/『史学論叢』46号)。

なぜ続々と通説が覆っているのか。

それは戦後日本の歴史学に、中近世の戦争を研究することへの忌避があり、アカデミックの場でほとんど論じられていなかったためである。

戦前はこの合戦の内容を、江戸時代に書かれたフィクションをベースに進めていたが、これを近年の歴史学で深化した史料批判の手法を通してみると、かなり怪しいことが見えてきた。

後世史料(二次史料)よりも、同時代史料(一次史料)に重点を置いて再検証すると、前者が脚色もりもりの創作物語であることが明らかになるのは、もはや研究者のみならず歴史愛好家の間でも常識と化している。

これらは公開直後から絶対に動くことのない定説とされ、無批判に扱われてきた。

しかし、これから歴史に関心を寄せる人は、よく心してほしい。歴史は常にアップデートされる可能性がある。

そこに不変の定説というものはないのだ。

一次史料にみる関ヶ原の戦い
関ヶ原の石田三成陣地跡に関する論文

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