東印度艦隊司令長官の浦賀来航と開国要求は、実は二度目 なんです。
1846(弘化3)年・・・。
ジェームズ ・ ビッドル提督が二隻の帆船を従えて来航し、幕府との交渉を試みましたが、全く相手にしてもらえない儘退去させられています。
ペリーが最初から高圧的態度で交渉に臨んだのは、良くも悪くも、ビッドルの失敗に学んだ為とも云われています。
ペリーが上陸したといわれる久里浜は浦賀水道入口の今は静かな海浜です。
《ペリー上陸の図・嘉永6年7月14日図・ペリー上陸記念館所蔵》
ペリー公園は1853年(嘉永5年)に黒船を率いて同市の浦賀に来航したマシュー・ペリー提督の上陸の地である久里浜に整備されている。
園内にはペリー来航を記念して1901年(明治34年)7月14日に米友協会が建立したペリー上陸記念碑を中心に、ペリー記念館、児童広場がある。
上陸記念碑の碑文「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は伊藤博文の揮毫(きごう)によるものである。
ペリー記念館は、横須賀市の市制80周年を記念して1987年に開館したペリーの足跡を記念する記念館である。
建物は2階建てで、館内は1階が受付と黒船来航当時の久里浜周辺の地形と黒船を再現したジオラマ模型の展示、2階がペリーの久里浜上陸図や当時の絵図といった資料の展示室となっている。
ペリーの上陸記念碑は国書の受け渡しから48年経った明治34年に建てられたそうです。
何も記念碑がないことに驚いた当時の乗組員ピアズリーが来日時に嘆き遺憾の意を表明したことがきっかけだったようです。
明治34年の除幕式にはペリーの孫のロジャースが来日しアメリカ側のロジャース日本側の金子堅太郎(米友協会会長・当時司法大臣)のお手植えの松が記念碑の隣に並んでいます。
1853年6月3日(旧暦)
ペリーは戦闘準備を行って、武力で威嚇しながら、徳川幕府に開国を迫り、国書を渡して、来年の春に返書を受け取りに来ると告げて帰国した。
(シーボルトから日本人は考える時間を与えれば冷静に対処するが即決を要求すれば駄策でも命がけになると助言を受けた結果)
ペリーは、1854年1月16日(旧暦)に7隻で再度来航。
江戸湾羽田沖まで来て礼砲・祝砲の名目で55発の大砲を発射するなど軍事的な威圧を加えて交渉を行い、同年3月3日(旧暦)に幕府と日米和親条約を締結した。
条約の内容は、箱館(現在の北海道函館)と下田(現在の静岡県伊豆半島)の開港、薪水・食料・石炭などの供給、両港における遊歩区域の設定、アメリカ船の必要品購入許可、アメリカへの最恵国待遇の承認などである
幕府の全権大使・浦賀奉行戸田伊豆守(1799-1858年)の像。
幕府は氏栄と井戸弘道を幕府代表として久里浜でペリーとの会談をもたせた。
戸田・井戸らは鎖国している中のことではあるが、黒船を率いて強気に返答を求めるアメリカ側の姿勢を見て、やむなくフィルモア大統領の親書を受け取った。
この時、氏栄は本家の大垣藩に藩兵を送る様に要請、これに基づき大垣藩家老・小原鉄心から送られた130名の大垣藩兵を率いてペリーと接見したという。
この人物の苦労は並みたいていのことではなかっただろうと同情する。
公園の片隅には、ペリーの生まれ故郷であるアメリカ・ロードアイランド州ニューポート市から贈られた石が置かれている。
何の変哲もない石で、由来を記したプレートがなければ何でここに石が置かれているのかわからないくらいである。
プレートには「マシューC、ペリー准将の出生地である米国ロード アイランド州ニューポート市からの記念石」と記されている。
昭和62年7月14日(ペリー上陸記念日)に公園内のペリー准将記念館の開館を記念して、在日米海軍司令官とニューポート市長から寄贈されたものである。
泰平の ねむりを さます じょうきせん
たった四はいで 夜も 寝られず
江戸幕府は約二百年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていました。
その日本に対し、突如として泰平の夢を破るように、1853年7月8日(旧暦・嘉永6年6月3日)開国を迫る四隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸しました。
この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督でした。
江戸湾の守備に当たっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船の姿を見て、驚き動揺しました。
開国を促す黒船の来航に、幕府要人はもちろんのこと、その威容を見聞きした人たちの驚きはどのようなものだったでしょう。
その驚きを端的に表現したのが、この落首です。
なお、「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中間部詮勝(まなべあきかつ・号 松堂)作ともいわれています。
ペリー公園へのアクセス、行き方歩き鷹
住所:横須賀市久里浜7丁目14番
電話:046-834-7531
JR横須賀線久里浜駅・京急久里浜線京急久里浜駅から徒歩20分