川面に映える漆黒の城 岡山城

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戦国時代に、備前西部から美作、備中に勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、両池田氏により整備、拡張が行われた。

後楽園と岡山城を結ぶ月見橋からの天守。
この月見橋の架かる旭川は、秀家築城当時に天守の外堀にする為に、わざわざ川筋を変えた川です。

池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、搦め手の廊下門脇を守る小納戸櫓が上に建っていた。
一帯の石垣の石材は犬島(岡山市犬島)から運ばれたとみられる割石で、「+」や「L」形などの刻印を持つものがある。

廊下門
後楽園から月見橋を渡り、天守に近づいて行くと最初に出会う門。
表書院から本段に連絡した廊下があり、その下に設けた門であるから廊下門とよばれる渡櫓門です。

月見櫓(つきみやぐら)
岡山城の建物で現存するのは月見櫓と西丸西手櫓(にしまるにしてやぐら)。
月見櫓は城郭防御の目的だけではなく、月見をはじめ四季の風流を楽しむ場所として使われていた。

外部から見るときれいな高石垣。
隅部は表面を特に平らに整えた方形の割石を配し、その長辺を交互に振り分けた算木積みとなっている。
この辺りの石垣は野面積とは異なり、石の周辺を加工した打込接という工法である。

天守礎石群
昔の天守閣の礎石を本段のここにに移して配置している。門は、再建された六十一雁木上門。

十二村哲(とにむら・てつ)作詞、飯田景応(いいだ・けいおう)作曲の「岡山城」という歌があり、天守閣のそばに歌碑が立っている。
この二人のコンビで生まれた「月の法善寺横丁」は、藤島桓夫(ふじしま・たけお)が歌って大ヒットした。

一 栄華の夢を 現(いま)にして 雲井に映ゆる 天守閣 月見櫓よ 石垣よ
                                        鶴が羽ばたく 後楽園も 姿変わらぬ 岡山城
 二 歴史の絵巻 浮かべつつ 流れも清き 旭川 松の梢を 吹く風に
                                昔しのべば 武士(もののふ)どもの 声が呼ぶような 岡山城
 三 烏城(うじょう)の名さえ なつかしく 壮麗誇る たたずまい 三十一万 五千石
                               空を仰げば いらかの波に 金鯱(きんしゃち)も躍るよ 岡山城


天守よりの眺望。
旭川、月見橋が見える。

天守よりの眺望。

実は岡山城で行われた発掘調査では金鯱は出土していません。
ただし、金箔を施された軒丸瓦・軒平瓦などが出土しています。
岡山城が築城された頃(安土桃山時代)は、これらは金鯱とセットで使われることが一般的だったので、宇喜多秀家が築いた天守にも金鯱が使われたと考えられています。

現在の岡山城の金鯱は表面全てが金色ですが、安土桃山時代は、鰭(ひれ)、棘(とげ)、耳、目、牙など体から突出した部分に金箔を施していました。
また鰭、耳の内側、唇、に朱を施したり、朱の上から金箔を施したりもしていました。

想像してみてください、体は瓦の黒灰色、鰭や牙が金色、唇が朱色。
かなり際立った色使いです。
キレイと言うより不気味かも……。

両替商の店先

桶屋の仕事場

直家の子・宇喜多秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となる。
これに相応した城とするため天正18年 – 慶長2年(1590年 – 1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えた。

築城には義父となった秀吉の意向が大いに働いていると言われている。

宇喜多秀家は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに西軍最大の17000の大軍を率いて出陣、一敗地に塗れて八丈島に流された。

その後小早川秀秋が筑前・名島から移って岡山城主となったが、在城わずか2年余りで急死し、後継者がいなかったのでこの家は断絶した。

そのあと姫路城主・池田輝政の子、池田忠継に備前一国28万石を与えられ岡山城に入り、後に鳥取から国替えで池田光政が31万5千石で岡山城主になって以後池田氏の時代が続き明治維新におよんだ。

大正時代に岡山県知事として辣腕を振るった『笠井信一』の銅像。

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岡山城へのアクセス、行き方歩き方

住所:岡山市丸の内2-3-1
電話:086-225-2096

JR山陽本線・山陽新幹線 岡山駅 徒歩約25分
岡山駅から 岡電バス「岡電高屋行き」、両備バス「東山経由西大寺行き」 いずれも「県庁前」で下車

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