義侠木津の勘助の地をゆく

木津勘助(本名・中村勘助)は、慶長から元和にかけて活躍した土木技術者で、木津川を開削して勘助島(現・浪速区大国町)を開発した。

寛永16年(1639)に大坂が冷害で大飢饉となった際、私財を投げうって村人に分け与え、それでも足らないということで、命がけで大坂城の備蓄米の「お蔵破り」を決行して、飢饉に苦しむ人々を救済しました。

「浪速の義侠」と呼ばれて、大坂庶民の英雄となった勘助勘助のゆかりの地を訪ねた。

古来より難波下の宮と称される、難波一帯の産土神(うぶすなのかみ)。
都心部の社らしい近代的な社殿は、昭和49年(1974年)に改築されたもので、獅子頭をかたどった高さ12m、幅11m、奥行10mの大きな獅子殿が目をひく。

難波八阪神社船渡御行事は江戸時代、天神祭(大阪天満宮)と並んで盛大におこなわれていたと伝わっています。

後三条天皇の延久年間( 10 6 9 ~1074)には牛頭天王の古社として知られ、寛文元年(1661)には後陽成天皇の第八子・重雅親王直筆の縁起書を賜わっています。

高さ12メートル、幅11メートル、奥行10メートルという巨大な獅子舞台でも有名です。

篠山神社(難波八阪神社境内社)
難波八阪神社の境内社で、大坂代官・篠山十兵衛景義(1755~1818)を祀っています。
十兵衛は誠実謙虚な人柄で、淀川の治水、物価の安定化から夫婦喧嘩の仲裁まで心を配った名代官です。

難波や木津辺りは野菜類の栽培が盛んでしたが、当時、野菜売買は天満青物市場が独占していて、不平不満が高まっていました。

そこで十兵衛が尽力した結果、文化7年(1810)、木津村に市場開設の官許が出て、こが現在の大阪木津地方卸売市場で、十兵衛は木津村発展のきっかけを作りました。

浪速区敷津西一丁目7 鴎町公園、折口信夫生誕地碑。
折口信夫は若くして歌に志し、頭角を現した。
釈迢空(しゃくちょうくう)の筆名でも著名。

また国文学の民俗学的研究に新分野をひらいた。
柳田国男の知遇を得て、彼自身各地方を探訪、風俗習慣の解明につとめた。

生誕地は、ここから南へ2筋目付近である。
昭和28年没、67歳。

市制 70周年記念として碑が建立され、昭和58年(1983)には「十日戎」の一文を刻んだ文学碑が建てられました。

「ほい駕籠を待ちこぞり居る人なかに おのづからわれも待ちごゝろなる」「正月がすむとすぐ十日戎である 今宮の戎前から難波の入堀川に面したお藏跡まで十丁あまりの間に ずつと子寶店その外の店が出て 揉み返すやうな人ごみである 其中を壓され壓されて來る色町のほい駕籠を見に出た記憶が消えない」

大阪市浪速区鴎町公園内にある「勘助橋跡の碑」。
勘助が架けた橋の跡地であると伝わる。
石碑の側面には「橋はなくとも 勘助橋は 渡りますぞえ いつまでも」の俗謡が彫られている。

敷津松之宮の境内にある勘助の銅像はその事績を顕彰して建てられている。
最初の像は先の戦争で燃えたため、1954年(昭和29年)に再建された。

彼の名を一躍有名にしたのは、寛永16年(1639)に大坂が大飢饉となったさいに、私財を投じて村人に米を分け与え、それでも足らないので、大坂城の備蓄米の施しを願い出ましたが聞き入れられず、ついに「お蔵破り」を決行して、大坂庶民を救ったことです。

結果として勘助は捕まって葦島(現在の大正区)に島流しとなり、万治3年(1660)、75歳で亡くなりますが、その生きざまは、歌舞伎、文楽、講談、落語、浪花節、江州音頭、河内音頭などの格好の題材となり、浪速の義侠・木津の勘助の名を不朽のものとしました。

また勘助の妻は豪商・淀屋辰五郎の一人娘・お駒で、墓参りの帰りに袱紗包を拾ったことが由縁で結ばれるというエピソードも有名です。

道標には、「この道は、旧渡辺村と大阪市中をつなぐ唯一の道でした」と刻まれている。

1700年代、この地に存在した渡辺村は、大阪天満組に属し、皮革の流通を中心に商工業が発展してきた。
当時、大阪市内中心部と渡辺村を結ぶ道はこの道のみだったと言う。

願泉寺(がんせんじ)
寺伝によれば願泉寺は小野妹子(おののいもこ)の八男、法証(ほうしょう)の開基といい、四天王寺と同時期にあたる古寺である。

境内には伊達政宗(だてまさむね)寄進の客殿・茶室が国宝としてあったが、戦災で焼失した。

相阿弥(そうあみ)の作とされる庭園は、そのとき樹木などが焼失したが現在は昔の姿に復元されている。

茶室・相應庵があって、武者小路千家の茶道教室なども定期的に開かれています。

折口信夫の墓がある。

江戸時代は、紀伊徳川家の参勤交代の陣屋となり、徳川家より三ツ葉葵の寺紋を許されています。

唯専寺
用明天皇(在位585~587年)の時代に、天種子命(あめのたねこのみこと・中臣氏の遠祖)の子孫・迹見赤摂(とみいちひ)が、木津浦に草庵を構えたのが起こりと伝えられ、その後、三十三世光重が蓮如上人の弟子となり、明応7年(1498)に坊舎を建立、天正7年(1579)に唯専寺の号を授与されました。

本願寺と織田信長との石山合戦のさいの功績により、明治4 4 年(1911)に本山から由緒寺として認められました。

境内には寛永14年(1637)鋳造の梵鐘や木津勘助の墓があります。

大阪市浪速区敷津西2丁目にある唯専寺の境内に勘助の墓と伝わる墓標がある(左側の壷のようなデザインが墓)。

高さ30Cm足らずの小さな墓石である。
刻文は不明。

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