四の宮をすぎると、間もなく逢坂山へかかり、大谷の集落から、滋賀県に入る「関の清水」は、蝉丸神社(下社)の中にあるが、これは後に作られたもので、本物は清水町の人家の中にあったという。 『近江山河抄』より
清少納言や紀貫之が見た逢坂山(おうさかやま)の風景も、こんな感じだったのだろうか。
大谷駅を降りまず空腹を満たすことに。
明治5年(1872)創業の老舗『かねよ』に立ち寄った。
古くからの峠の茶屋だそうで、ガイドブックにも紹介されていた。
庭園を眺めながら座敷でうなぎ料理が楽しめるそうだ。
今日はあいにくレストランが定休日。
何が幸いするかわからない、レストランの定休日には本来個室に使われている部屋でウナギを戴けるのだ。
大正時代の詩人の野口雨情が来店し、箸紙に書いた歌が、『うなぎ料理は逢坂山にひびくかねよが日本一』と・・・
見てください、道路標識に擬して、ウナギの数々、遊び心も素晴らしい。
「車石」石に深く刻み込まれた溝が牛舎の行き来が煩雑だった頃の峠の賑わいを伝える。
関蝉丸神社(せきせみまるじんじゃ)は、滋賀県大津市にある神社である。
社格は旧郷社。
上社(旧称関大明神蝉丸宮)と下社(旧称関清水大明神蝉丸宮)からなり、また当神社の分社とされる蝉丸神社と3社を併せて蝉丸神社と総称する場合もある。
蝉丸神社本殿。
月心寺、京、大津への玄関口、逢坂山の関所を控える、かつては東海道随一の賑わいをしていた追分の地で繁昌していた走井茶屋の跡。
境内には今も枯れることなく走井の名水が湧き出ている。
国道1号の拡張や東海道本線の開通により町が廃れてしまい、持ち主の茶店も八幡へ移ったあと朽ち果てていた。
このまま朽ちるのを惜しんだ日本画家の橋本関雪が1914年(大正3年)に自らの別邸として購入し、後に天龍寺慈済院より村上獨譚老師を迎え今のような寺院となる。
別邸の名は「走井居」と言う。
西側にある山門、普段は閉ざされているようです。
江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は慶長17年(1612年)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝える。
同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里塚)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。
なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家のご子孫が住まわれていた。
登りきったあたりに、逢坂山関跡がある。
795年には既に存在していたことが日本紀略に記されているそうで、京都を守る重要な関所、三関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)のひとつ。
「逢坂の関」常夜灯。
蝉丸とはどういう人物だったのか?
百人一首に採られている歌。
「これやこの往くも還るも別れては知るも知らぬもおふさかの関」
この一首が知られているのみです。
他には謡曲の中の「蝉丸」です。
謡曲『蝉丸』
延喜帝(えんぎてい)の皇子であった蝉丸は、幼少の頃から盲目で、逢坂山に捨てられました。
一方、蝉丸の姉である逆髪(さかがみ)も前世の業が深く、狂女となり徘徊していました。
逢坂山で孤独の身を琵琶を弾じて慰めていた蝉丸は、偶然琵琶の音を聞いてやってきた逆髪と再会。
お互いの運命を嘆き合いつつも、逆髪は心を残しながら別れていきます。
名にし負はば 逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな
三条右大臣
夜をこめて 鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ (清少納言)
「藤娘」や「鬼の寒念仏」といった世俗画が画かれる大津絵は、かつて旅人の土産として広まった。
関蝉丸神社上社。
参詣道は閉じられ荒れています。
下社の関蝉丸神社を目指し国道1号線を大津へ向け進むが、交通量が多く、歩行に適した状態ではない。
石灯籠の入り口の横に「関蝉丸神社」と「音曲藝道祖神」の石碑が並ぶ。
一般には、蝉丸神社といえば下社の関蝉丸神社のことをいう。
そこから一の鳥居にかけての参道を京阪電鉄が横切るように走る。
境内に入るとすぐ右側に歌碑がある、蝉丸の歌碑だ。
これやこの ゆくもかえるも 別れては しるもしらぬも あふ坂の関
この蝉丸神社には、さまざまな伝説が残されているが、『関清水大明神縁起』では、蝉丸は醍醐天皇(在位八九七~九三〇)の皇子という設定で、次のように記されている。
蝉丸は盲目であるため王宮に居ることがかなわず、逢坂山にただ一人流刑の身となった。蝉丸の姉宮は弟の身の上を哀れみ、ある逢坂の山中に蝉丸をさがしに行く。
すると、どこからともなく琵琶の音が聞こえてくるので、それをたよりにとある草案の前に立つと、人の気配を感じた蝉丸が扉を開けた。
ひさしぶりの対面をはたした姉宮はかわりはてた蝉丸をまのあたりにして「御心モ乱レ、狂乱シ給フ時ハ、御髪モ逆様ニ立ツ」ありさまで、それより姉宮の名は逆髪《さかがみ》と呼ばれた、というのである。
その後、この関の神に、盲目の琵琶法師の祖とされる蝉丸の霊が合祀された。
蝉丸が逢坂山に隠棲していたことは、平安時代後期の『今昔物語集』に見えるが、鎌倉時代初期の鴨長明《かものちょうめい》の『無名抄』には、蝉丸が関明神と信じられていることが記されている。
蝉丸は天暦五年(九五一)の勅撰和歌集『後撰集』にみえる、
これやこの ゆくもかえるも 別れては
しるもしらぬも あふ(逢)坂の関
の作者としても知られるが、生没年・出自等は不詳である。
この蝉丸と関明神が同一視された結果、関蝉丸明神社は「音曲諸芸道の祖神」としてあがめられることになった。
中性・近世を通じて同社の高名は広がり、芸道を志すものは必ず参詣したという。
現在、関蝉丸神社は、上・下二社をもって一社を構成している。
上社は旧片原町に鎮座し「坂頭の社」「関大明神蝉丸宮」とも称し、下社は旧関清水町に鎮座し「坂脚の社」「関清水大明神蝉丸宮」とも称する。
管弦の道をきわめた源博雅が、ある日「会坂ノ関」に蝉丸という琵琶の名手が住むとの噂を聞き、蝉丸のみが伝えるという流泉・啄木という秘曲の伝授をこうため逢坂山に向かった。
庵のそばで、博雅は、今か今かと蝉丸が秘曲を奏でるときを待ったが、一向に願いはかなえられず、そのうち三年の月日が流れた八月十五日、「月少シ上陰《クモ》リテ、風少シ打チ吹キタリケル」興深い夜となり、今宵こそは秘曲を、と念じつつ庵を訪ねた博雅は、ようやく流泉・啄木の秘曲を聞くことができたという。
舞殿。
末社、貴舩神社。
その昔、森進一と大原麗子が結婚した時にお参りして寄進したと思われる提灯が残される。
本殿。
本殿の屋根はかなり傷んでいる、文化財の維持の困難さを考えさせられる。
「時雨燈籠」の名称でしられる六角形の石灯籠は重要文化財に指定されている。
六角形の基礎には単弁の蓮華座を彫り、その上にたつ竿の中ほどに蓮華と朱紋《しゅもん》帯をつくり、六角形の火袋は簡素なもので、火口を一ヶ所と小さな丸窓を設け、壁面も上部にだけ連子を《れんじ》を彫っています。
逢坂の流れは清し 初桜 蝉丸の学びの宮ぞ 春の風
平安時代の歌人で六歌仙のひとりである小野小町の塚といわれている。
平安時代の美貌の歌人で知られるが、その生涯は謎が多く、さまざまな伝説が残る。
その中には、小町が晩年逢坂山の関寺の近くに隠れ住んだという伝え画あり、「鸚鵡小町」や「関寺小町」に語られる。
下社の裏手には、小町塚がひっそりたち、石面に刻まれた「はなのいろは うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしに」の歌が老女になった小町の姿をいまにつたえる。
「あふさかの 関のし水に影見えて 今やひくらん もち月のこま」 紀貫之
その先に「関の清水」の石組がある。
歌枕として知られる。
今は水が枯れている。
「古今集」(君が世に あふさか山のいはし水 こがくれたりと 思ひけるかも)壬生忠岑 など多くの歌に詠まれている。