熊野速玉大社で過去を捨てる

和歌山県

熊野三山にお参りすると、その人の過去におかした罪がなくなり、これからの幸福の実現や亡くなってから極楽に行くことができるといわれています。

熊野速玉大社を参詣すると「現在」のご利益、熊野那智大社は「過去」のご利益、そして熊野本宮大社は「未来」のご利益がそれぞれあると言われています。

入口鳥居

熊野夫須美大神は伊邪那美神とされる。

もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。

神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。

まず右手に八咫烏(やたがらす)神社と鑰宮 手力男(かぎのみやたぢからお)神社があります。

八咫烏(やたがらす、やたのからす)は日本神話で、神武東征の際に神武天皇を熊野国から大和国へ、道案内したとされる烏です。
3本足の烏だと言われています。

熊野三山では烏は神使として信仰されており、日本神話に登場する八咫烏は単なる烏ではなく太陽の化身と言われています。

本来の午王宝印護符は、裏面に願い事を記して神社に奉納したり、そのまま家屋の柱や軒先などに張って災害除けとしたものだったが、室町期以降、この護符に真偽正邪を正す霊験があるとして人間同士の約束事を書き付ける起請文として多用されている。

神の使いであるカラス立ち会いのもと、お互いの約束事を神前で誓い合うわけで、もし、この誓いを破ったら、その報いとして、当人は血反吐を吐いて死に無間地獄に堕ちること確実とされ、そのとき、遠い熊野では神と人の間を取りもったカラスが3羽死ぬと信じられていたという。

朱色の鮮やかな神門をくぐって神域に入ると、瑞垣に囲まれた神庭の正面に、十二社を祀る社殿が棟を並べて立っている。

速玉神社は、神門(じんもん)内も自由に撮影が許可されていて、鈴門(れいもん)と玉垣内の社殿がじかに拝観できる。

左端から結宮(第一殿)、拝殿裏が速玉宮(第二殿)で、つづく三つの鈴門は上三殿(第三殿、第四殿、神倉宮)である。

さらに右に二つの鈴門があり、中四社と下四社が合祀されている。
神倉宮が祀られているのが速玉大社の起源を物語る。

「速玉大社と武蔵弁慶」は、熊野別当湛増の息子、弁慶の出自としては、熊野速玉大社に仕えた熊野三党のひとつ鈴木一族とされ、その最後については、義経の叔父、新宮十郎行家(熊野別当の娘が母。新宮に住んでいたので新宮)とともに、この地で討ち死にしたとも伝えられている。

梛の大樹 – 国指定名は「熊野速玉神社のナギ」(1940年〈昭和15年〉2月10日指定)。
高さ20m(17.6m)、幹周り6m(5m)、推定樹齢1,000年、ナギとしては国内最大であるとされる。

ナギはマキ科の常緑高木であり、よく神木として植樹された。
本樹は雄株であるが、幹に分岐が見られることからもとは数株であったともされ、平治元年(1159年)社殿の落成において熊野三山造営奉行であった平重盛の手植と伝えられる。

ナギは凪に通じることから、ナギの実を束ねたものやナギの枝を護符にする。
ナギの木は、熊野杉や天台烏薬とともに新宮市の「市の木」に指定されている。

熊野速玉大社 後白河法皇 梁塵秘抄 歌碑

熊野へ参るには 紀路と伊勢路と どれ近し どれ遠し
廣大慈悲の道ならば 紀路も伊勢路も遠からず


野口雨情 文学碑
国のまもりか 速魂さまの 御庭前まで 神さびる

後鳥羽天皇の歌碑。

岩にむす 苔ふみならす 三熊野の 山のかひある 行末もがな

後鳥羽上皇は29度も参拝しています。
熊野速玉大社というより、熊野三山への行幸です。

佐藤春夫 望郷五月歌の碑(陶板)。

塵まみれたる街路樹に

哀せふる五月(さつき)に来にけり

石だたミ都大路を歩みつつ

恋しきや何ぞわが故郷(ふるさと)

あさもよし紀の国の牟婁(むろ)の海山

夏ミかんたわわに実り

たちばなの花咲くなべに

とよもして啼くほととぎす

心して勿(な)散らしそかのよき花を

朝霧か若かりし日の

わが夢ぞ

そこに狭霧(さぎ)らふ

朝雲か望郷の

わが心こそ

そこにいさよふ

空青し山青し海青し

日はかがやかに

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熊野速玉大社へのアクセス、行き方歩き方

住所:和歌山県新宮市上本町1丁目
電話: 0735-22-2533

JR紀勢線新宮駅から徒歩15分