築城名人・藤堂高虎会心の名城 宇和島城

日本100名城の一つ。
宇和島は、ごく最近まで、日本国の街道のゆきつく果てと言われた。
今でもJRのレールは宇和島駅で終わっている。

現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。
また、宇和島城は遅く生まれすぎた人、伊達正宗の無念さを思わせる城でもある。

藩老桑折氏武家長屋門(はんろうこおりしぶけながやもん)
城山東北川の登城口に位置する長屋門。

家老桑折家屋敷地に残されていたものを、昭和27年桑折家より譲渡を受け、現位置に移築した。
長屋の一部は失われていますが、市内には数少ない武家屋敷の建造物で、市の指定文化財となっています。

現在は天守北西部の土砂崩落により大きく迂回し、仮設階段を登らねばならない。

この仮設の階段を登ったところが二の丸。

二の丸から下方を見やれば本来の登頂ルートが見えている。

藤兵衛丸には宇和島市立城山郷土館がある。
建物は山里倉庫(武器庫)を移築したもの。

長門丸跡。

櫛型門跡から天守を望む。
7万石で入封し、宇和島城を大修築した藤堂高虎は、加藤清正、黒田官兵衛と並ぶ築城名手の一人。

二の丸跡から宇和島湾を望む。
標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸とも)を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。

現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。

五角形平面の縄張り「空角の経始(あきかくのなわ)」は四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、現に幕府の隠密が江戸に送った密書には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記された。

高虎の発想は、城を攻める側は当然方形の縄張を予想して攻めてくる。
しかし実際は五角形だから、一辺が空角になる。

つまり、城を攻める側にとって、完全に死角になってしまい、攻撃は手薄になる。
いわば、この一辺の空角は、敵の攻撃を避けられるとともに、敵を攻撃する出撃口ともなり得る。

そればかりではない。
この秘かな空角は、物資搬入口ともなり、城から落ちのびる場合の抜け道ともなる。
これは守城の作戦上、効果は絶大なものといえるだろう。

当時の築城術でこのようなからくりを用いた城は他にはなかった。
さらに宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。

宇和島城には「空角の経始」、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が、見事に生かされた城だったのである。
画像は天守から望む宇和島湾。

天守内部の様子。

現存する天守は伊達政宗の庶長子・秀宗の息子・輪島伊達家二代目宗利が再建。
高虎が創建した望楼型天守を、3重3階白漆喰総塗籠の層塔型天守に改めた。

土台からの高さが15.8mと小ぶりながら、唐破風の玄関を付けたユニークな外観で、1重に比翼千鳥破風、2重に千鳥破風、3重目に軒唐破風と、変化にとんだ装飾が美しい。

さらに破風の下に施された蕪懸魚(かぶらげぎょ)など、小さいながら御殿建築の意匠が随所に見られ、太平の世を表す華麗で格式高いつくりになっている。

御大所跡(御台所跡)

石垣が切りこみはぎで綺麗(二ノ丸の登り口から見る天守)

城山の植物は少なくとも300年以上、火災や伐採をまぬがれたため、巨木や珍しい植物の宝庫となっています。


馬上少年過ぐ

馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の赦す所
楽しまずして是を如何にせん

戦場に馬を馳せた青春の日々は遠く過ぎ去った。
今や天下は泰平。
俺の髪の毛はすっかり白くなった。
何の因果か、戦国の世を生き延びたこの身である。
老後くらい好きに楽しまないでどうするのだ。
天もきっとお許しになるだろう。
伊達政宗が、晩年の述懐を詠んだ詩とされます

生まれてくるのが遅過ぎた。
戦国の争乱期に遅れて僻遠の地に生まれたが故に、奥羽の梟雄としての位置にとどまらざるをえなかった伊達政宗の生涯を描いた『馬上少年過ぐ』。
政宗の前に立ちはだかった豊臣秀吉は、全国の軍を引き連れて北条攻めに向かう。
天下人の前に成すすべなし。

政宗の野望はここに終わり、秀吉に臣従することとなる。
正宗は聚楽第で秀吉に拝謁したとき長子秀宗をも拝謁させた。
この時代の習慣ではその幼児が主人に拝謁した場合は、その家の世継ぎになるのである。
しかも正宗は、

「お手許にてお育てくださいませんか」と頼んだのだ。
慶長5年(1600)関ヶ原で徳川の天下が成立する前後から、正宗はその方へ参じたが、豊臣家へ行ってしまっている長子の秀宗の始末に困った。
結局正夫人が生んだ次男虎菊丸(のちの忠宗)を家康と秀忠に拝謁させたのである。

秀宗は、哀れなものであった。
かれはすでに大坂を去り、江戸に居住していたが、ともかくも豊臣秀吉の猶子(ゆうし)だったということは、徳川氏の治下ではまずいことだった。

大坂冬の陣の直後「伊達秀宗には、別家を立てさせ、伊予宇和島10万石をやろう」ということで、仙台伊達家と切り離した。
 「あと20年早く生まれていれば・・・」
と、政宗はつぶやいたと言う。
20年早く生まれれば、自らが天下人になっただろうという強い自負があったのだろう。


街道をゆく 14 南伊予・西土佐の道

愛媛県の南西部、南予地方の中心都市である宇和島市は、作家の司馬遼太郎が長崎と並んで最も愛した町の一つだ。

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宇和島城へのアクセス、行き方歩き方

住所:宇和島市丸之内1 (内1・2・3)
電話:0895-22-2832 (郷土館 電話:0895-22-3904)
JR宇和島駅→徒歩10分で桑折長屋門へ。
上り立ち門まで徒歩15分、各門から本丸までさらに徒歩15~20