正確には設楽原の合戦だが、徳川方の長篠籠城に続いて行われた戦闘だから、長篠合戦の名で呼ばれる。
徳川方が参加している戦争はすべて徳川幕府の記録本位で名がつけられている。
その意味でも権力者の歴史である。
いつの場合でも勝った側が歴史書を残すケースが多く、その点注意してかからないととんだ勘違いをしてしまうことになる。
長篠・設楽原合戦図。
5月18日、信長軍3万、家康軍8千が長篠に到着した。
しかし、信長軍3万という数についてはかなりの誇張があったらしく、現在では、織田・徳川連合軍が1万7千ないし1万8千ぐらい、それに対する武田軍が6千ぐらいではないかとする説が有力である。
仮に、織田・徳川連合軍を3万8千とし、武田軍を「甲陽軍鑑」が伝えるように1万5千とすれば、両軍合わせて5万を超える大軍となり、長篠城西方の設楽原には、こけだけの軍勢が動き回れるほどの空間がないのだ。
現地を見れば一目瞭然だ。
雨の中を馬防柵目指すツアー参加者。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。
甘利郷左衛門尉信康之碑
柳田前激戦地の道路を挟んだ向かい側
甘利信康は、信玄を若い頃から支えた老臣・甘利虎泰の子である。
長篠・設楽原合戦時には父・兄は既に亡くなっており、弟の甘利信康が百騎の侍大将として小荷駄奉行を勤めた。
いろはかるたには、「雄々しくも立ち腹さばく甘利信康」と書かれています。
奮戦の末、立ったまま切腹して果てたと言われる。
柳田前激戦地 碑
甘利信康之碑の道路を挟んだ向かい側
連吾川を渡る橋の近くに碑といろはかるたがあります。
合戦当時、この付近は水田や泥沼地になっており、馬は足を取られて思うように動けなかったようです。
さすがの武田騎馬軍団も、これではお手上げ。
鉄砲隊の餌食になったようです。
いろはかるた「ぬかるみに馬もしりごむ連吾川」
武田騎馬軍団はイメージ的には黒沢明監督の『影武者』のラストシーンのようなものだろうか。
でも最近の研究で長篠の戦いは我々が教科書で教わった事とは随分違うらしいという事が分かり始めている。
武田騎馬隊というと、黒沢明の映画「影武者」のラストシーンで登場する武田騎馬隊を想像します。
しかし、実際はそんなかっこいいものではなかったようだ。
黒沢監督もいい加減な映画を作ったものだ、ま、当時としてそう信じられていたかもしれないし、エンターテイメントだといわれるとそれまでだが。
それを見た人は武田騎馬軍団をそういうイメージで記憶しているだろう。
映画とかドラマとかいうものにはいつもそういう危うさがついて回る、映画やテレビしか見ない人たちはかなりいい加減な知識を蓄えている可能性がある。
常日頃からそれを補完、修正するものが必要でしょう。
長篠の合戦の実態は馬防柵や鉄砲の三段打ちによる武田騎馬軍団の殲滅などという単純なものではなく、長篠城を含むスケールの大きな付城や陣城による攻城戦の色彩のつよいものであった。
そして、実際に勝負を決めたものは、単なる人数の寡多によるものであった。
これが長篠の合戦の真相である。
孫子の兵法は、
「十なれば即ちこれを囲み、五なれば即ちこれを攻め、倍なれば即ちこれを分かち、 敵すれば即ちよく闘い、少なければ即ちこれを逃れ、しかざれば即ちこれを避く。故に小敵の堅は大敵の檎なり」
意味は「敵の10倍の兵力があれば敵を包囲し、5倍であれば攻撃し、2倍であれば敵を分断して戦い、同等の兵力なら最善を尽くして戦い、こちらの兵力が少ないなら引き上げ、敵の兵力が大きい場合は戦い自体を避けよ。」という意味です。
しかも、古来、攻城戦というのは、城に立て籠もる兵の数倍から数十倍の兵力がなければ勝つことができないというのが常識です。
連吾川は不思議な川である。
「かんぼう山」を駆け下りた三つの沢が、ふもとで一つのおだやかな小川となり、設楽原を北から南へと流れる。
馬が走れば一跳びほどのやさしい平原の川であるが、二キロほど流れると、川の様相は一変して川岸は断崖となり、深い谷を刻む。
JR飯田線の連吾川鉄橋がその谷の始まりである。
中流の小川に沿う低地は早くから水田が開け、四百年前の慶長検地帳等で見ると、川筋の開田は現在とあまり変わっていない。
つまり、この地形は右岸の織田・徳川軍にとって守りやすさを、左岸の武田軍にとっては攻めにくさをもたらした。
田んぼのぬかるみを避けて、その間から攻める武田軍は、馬防柵で待ち受ける連合軍の鉄炮に大打撃を受けて敗退した。
柳田橋の欄干には戦いの様子のレリーフがたくさんあります、これは武田騎馬軍団か。
しかし、ここ設楽原は草原を想像するだろうがそうではなく、当時も今も水田地帯です。
しかも泥田だったといわれています。
こんなにかっこよく疾駆できるものではなかったようだ。
前方が徳川家康本陣。
高速道路の方面が織田信長本陣。
馬防柵の一角に碑がある。
土屋昌次の父・金丸虎義は武田晴信の守役で、昌次は次男だった。
ちなみに、金丸氏は足利氏一門の一色氏庶流で、昌次は「奥近習六人」の一人として信玄の傍近くに仕えた。
長篠・設楽原合戦では、三重柵の二重まで突破した所で一斉射撃を受け戦死した。
いろはかるた「土屋昌次 柵にとりつき 大音声」
名和式「鉄砲構え」
天正3年(1575)新暦の7月9日、織田信長・徳川家康軍が、武田勝頼軍との設楽原決戦に備えて構築した「鉄砲構え」乾掘と馬防柵と銃眼付きの身がくし(土塁)の三段構えであった。
古文献と時代考証による復原である。(現地説明板より)
信長は柵だけでなく、空堀も掘らせたといわれており、設楽が原の本陣を、臨時の砦のようなものとして位置付けていたことがわかる。
つまり即席の城を決戦場に作り上げたのだ(いわゆる野戦築城)。
これは三倍の兵力を持ちながらも信長が野戦で絶対に武田軍を破る事ができると考えていなかった事の表れであろう。
天正3年(1575)新暦の7月9日、織田信長・徳川家康軍が、武田勝頼軍との設楽原決戦に備えて構築した「鉄砲構え」乾掘と馬防柵と銃眼付きの身がくし(土塁)の三段構えであった。
古文献と時代考証による復原である。 (現地説明板より)
馬防柵脇に建てられた設楽原の合戦碑。
長篠合戦図屏風、少しおかしいね、よく見てください、鉄砲隊は馬防柵の前で撃っているではありませんか。
実は、戦国時代を扱った、江戸時代前期までくらいに書かれたエンターテインメントとしての戦記物、例えば武田家のことを書いた「甲陽軍艦」には「武田軍は騎馬軍団であった」なんてことは書いてありません。
武田軍が、19世紀の西洋の騎兵のような騎馬軍団であったとか、戦国時代の合戦が
* 両軍の接触、鉄砲と弓による戦闘
* 長い槍を持った足軽同士による戦闘
* 刀や槍を持った騎馬隊による戦闘
と推移する、といったことは、明治時代以降に言われるようになったことのようです。
その出典は、明治時代以降に陸軍の参謀本部が戦史を各種編纂した際に、上記のようなことが「歴史常識」として定着したようです。
例えば、戦国時代から大阪の陣までの合戦を描いた屏風がたくさん残っています。
いずれも、「指揮官が馬に乗り、他の者は徒歩で戦う」様子が描かれています。
多数の騎馬武者が密集して敵に突撃する、なんていう合戦屏風は見たことがないですし、軍記ものの記述でも見たことがありません。
設楽原歴史資料館は連吾川の北側の丘の上にあります。
最近、武田騎馬隊は存在しなかったという説をよく聞きます。
武田騎馬隊どころか、戦国時代には純粋な騎馬隊は存在しなかったと言われています。
1、武田軍の騎馬隊の内訳は山県昌景300騎、馬場信春500騎など、主だった武将の騎兵数を合わせても約4000騎、出来うる限り多く見積もっても約6000騎であり、武田軍1万3千人のうち半分ないし2/3は歩兵であると思われる。
従って、中国において元を建国したモンゴル軍や、一の谷の鵯越や屋島の疾駆奇襲でしられる源義経のように、騎兵のみで部隊を構成したという事実はない。
また、武田軍には騎兵の最大の特徴である「機動力」を生かした作戦が見受けられない。
つまり、武田騎馬隊は実質的には騎兵・歩兵混成部隊であると言える。
2、イエズズ会のルイス=フロイスがヨーロッパに書いた『日本覚書』によると、「われらにおいては、馬(上)で戦う。
日本人は戦わねばならぬときには馬から下りる。
われらの馬は非常に美しい。
日本のはそれよりずっと劣っている。」 とあります。
3、『甲陽軍鑑』によると武田家の大将や役人は、一備え(千名ほど)の中に、7人か8人が馬に乗り、 残りはみな、馬を後に曳かせ、槍をとって攻撃した。(巻6品14)」とあります。
設楽原へのアクセス、行き方歩き方
住所:新城市竹広字信玄原552
電話:0536-22-0673 新城市設楽原歴史資料館
JR飯田線 三河東郷駅下車、徒歩15分程度