道頓堀は大阪ミナミの東西基軸となる道頓堀通の両側町で、南は難波新地と千日前、北は道頓堀川を挟んで島之内の宗右衛門町や久左衛門町に接する。
1582年(天正10年)頃、豊臣秀吉から大坂城の外壕を掘鑿した功労および猫間川河岸整備に対する賞として、城南の地を拝領した。
1612年(慶長17年)、城南の開発には河川の堀鑿が必要と考えた道頓は、豊臣氏の許可を受け、私財を投じて城南地域中心部の水路(後の道頓堀)の堀鑿に着手した。
堀鑿中の1615年(元和元年)、大坂夏の陣に巻き込まれ、秀吉の遺児・豊臣秀頼に味方して入城、大坂城内で討死した。
なお、水路の堀鑿は、道頓の死後、松平忠明の許可を受けて道頓の従兄弟の安井道卜や平野郷の坂上氏の一族の平野藤次(安藤藤次)らが跡を継ぎ、同年11月に完成させた。
食満南北(けまなんぼく)の句碑。
「盛り場を むかしに戻す はしひとつ」
食満南北(1880~1957)は堺の生まれ。
坪内逍遥や村上浪六に師事。職を転々とした後、明治39年(1906)、3代目片岡我當に招かれて座付き作者に。
明治42年からは初代中村鴈治郎の招きで松竹に所属。
鴈治郎の座付き作者として数多くの戯曲、随筆、評論を書いた。
相合橋(あいあうばし)
この橋が初めて架けられたのは1680年代で、当初は中橋あるいは新中橋とよばれていた。
宝永4年(1707)に初演された近松門左衛門の『心中重井筒(しんじゅうかさねいづつ)』の一節にも中橋として登場している。
相合橋と名付けられた時期は不明である。
橋の南側は芝居櫓が立ち並ぶ芝居町で、北側は川筋の宗右衛門町のお茶屋街、橋筋には俗に六軒町と呼ばれた遊郭があった。
このように橋の周辺は大変華やかな雰囲気があり、「相合橋」という艶のある名前がつけられたのであろう。
しかしこの橋は、渡ると男女の縁が切れる“縁切り橋”ともいわれ、遊里の人々は橋を渡るのを嫌った。また婚礼の行列もこの橋は渡らなかったらしい。
江戸時代は「角の芝居」とも呼ばれた芝居小屋であった。
2013年(平成25年)7月28日、角座ビル跡地にダイハツ工業がメインスポンサーとなった「松竹芸能 DAIHATSU MOVE 道頓堀角座」が再開場した。
演芸場に加え松竹芸能の本社も入居する他、俺のフレンチ・イタリアン等が入居する別棟と、イベントスペースを兼ねた「角座広場」を備える。
浪花名所図会「道頓堀の図」
戎橋側から浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座の5つの芝居小屋を「五つ櫓」(いつつやぐら)又は「道頓堀五座」と呼んだ。
摂津名所圖會 道頓堀歌舞伎戯場(しばい) 角の二のかわり
太左衛門橋
橋の名は橋の東南角で歌舞伎の小屋を開いた興行師大坂太左衛門に由来するという。
寛永3年(1626)に道頓堀の南側に芝居と遊郭が公許され、大坂太左衛門ら6名が京都から進出した。
太左衛門橋がいつ架けられたかは明確ではないが、芝居小屋などへの通路として早くから架けられていたに違いない。
道頓堀太左衛門橋雨中
橋の北は花街の宗衛門町があり、芝居街と花街とつなぐ橋として有名になった。
大阪を代表する作家の織田作之助の「大阪の女」には、この橋について『さまざまな
人のさまざまな思い出がこもっている橋だった』と書かれている。
うどん屋さんの「今井」と「ジャンカラ」の間にある、人が一人やっと通れるくらいの小さな小路です。
「浮世小路」と書かれてますが、まあ、分かりにくい・・・・・・
路地を入ると「法善寺界隈」を描いた絵などにぎやかだ。
道頓堀今井
江戸時代は芝居茶屋「稲竹」を営んでいましたが、大正5年(1916)、今井楽器店に転業、当時まだ珍しかった舶来の楽器を並べ、道頓堀に大正モダニズムの風を運びました。
後の国民栄誉賞作曲家・服部良一がこの店でフルートを購入したといいます。
戦災後、うどん屋に転向。
軒先には、「城と御興(岩おこし)と鴈治郎はん」と大阪人の誇りに数えられた名優・初代中村鴈治郎を偲ぶ岸本水府の句碑「頬かむりの中に日本一の顔」が立っています。
「中座くいだおれビル」
同ビルには、飲食店など21店舗が入居する。
以前は「セラヴィスクエア中座」という名称だったが、「くいだおれ」の名前と「くいだおれ太郎」を借り受けることになり、「中座くいだおれビル」としてリニューアルオープンした。
なにわ名物いちびり庵
竹本座(たけもとざ)跡
初代竹本義太夫(同頂参照)が貞享(じょうきょう)元年(1684)人形浄瑠璃の小屋として開いたものである。
近松門左衛門を座付作者として迎えコンビを組み、興行的にも大成功をおさめた。
しかし数年で経営を竹田出雲(たけだいずも)にゆずり、義太夫は太夫として専念し、ますます人気を高めることになった。
その後義太夫が、そして近松が没したがそれでも出雲の努力で繁盛した。
出雲の死後は人形浄瑠璃も衰退し、明和4年(1767)遂に80余年の歴史を閉じた。
当時は竹本座・中の芝居・角の芝居・角丸の芝居・豊竹座・竹田の芝居と華やかな舞台を競い合った。
その後は歌舞伎の小屋となり、大西の芝居・筑後(ちくご)の芝居・戎座・浪花座と続き現在に至っている。
戎橋は、道頓堀川の開削とほぼ同時に架けられたと考えられる。
橋名の由来は今宮戎との関連が考えられるが定かではない。
通称、ナンパスポットで、引っ掛け橋とも言われていました。
大阪松竹座
テラコッタを使用したネオルネッサンス様式の正面大玄関の特徴あるアーチを持つ劇場建築は1923年(大正12年)に竣工する。
イタリア・ミラノのスカラ座をモデルに、大林組の設計技師・木村得三郎が設計した日本初の鉄骨・鉄筋コンクリートの映画館であり、大阪初の洋式劇場として、同年5月17日に開場した。
1997年(平成9年)2月に、外観を残しつつ最新設備を備えた劇場として新築開場。
松竹制作の歌舞伎・新劇・松竹新喜劇を中心に、歌劇、ミュージカル、コンサート等も上演されている。
曽我廼家喜劇発祥之地
御堂筋の“道頓堀橋南詰”交差点から 東に50m。
大阪松竹座に向かって左端、敷地の端に「曽我廼家喜劇発祥之地」と刻まれた、やや古びた石碑が建っている。
江戸時代から続いていた即興劇ニワカが 明治時代に発展して 舞台でも演じられるようになり、鶴屋団十郎一座が大阪で人気を博した。
これに刺激を受けた元歌舞伎役者の中村柵之助(後の曽我廼家五郎)は 同じ役者仲間の中村時代(曽我廼家十郎)を誘って「新喜劇」の看板をあげた。
これが日本における“喜劇”の先駆けとなった。
郎のアクの強い粘っこい芝居に対して、十郎はサラリとして飄々とした芝居を書き、彼等の 時代の変化を敏感に捉えた、人情味のあふれる演劇のスタイルは「曽我廼家喜劇」と呼ばれ、庶民の哀歓を笑いのうちに表現し 人気を博した。
1925(大正14)年 十郎の死後、曾我廼家五郎劇は東京を始め全国各地の一流劇場を常打ちにするなど、大人気劇団となった。
五郎は喉頭ガンのため無声となっても舞台に立ち続け、文字通りの「喜劇人」であった。
1948(昭和23)年 五郎が没すると、残された曾我廼家五郎劇の関係者は 松竹家庭劇と合流し、道頓堀の中座で「松竹新喜劇」を結成し、曽我廼家喜劇は藤山寛美らに引き継がれた。
この発祥碑は、1975(昭和50)年に藤山寛美らによって、中座の前に建立されたが、1999(平成11)年に中座が閉鎖になったため、大阪松竹座前に移設された。
道頓堀では超有名な「グリコ」のネオン。
道頓堀 スーパー玉出のネオン 動画
最近スーパー玉出の縦長ビジョンが追加され物議を醸している。
道頓堀も地に落ちたもんだ。
道頓堀橋
大阪観光の中心地なんばの道頓堀川に掛かる橋。
かに道楽やグリコの看板など、特に夜は川面に映るネオンが綺麗です。
新戎橋
明治26年3月に、久左衛門町と九朗右衛門町を結ぶ本橋が架けられた。
「大阪府誌」では新蛭子橋と書かれ、橋長が130尺(39.4m)、幅員20尺(6.1m)の木橋とされている。
その後、大正9年にほぼ同規模の木橋に架け替えられ、昭和17年に大規模補修が行われたが、戦災で焼け落ちた。
戦後の昭和26年に地元の協力によって、木造鉄骨の橋が架橋され、ヒノキ造りの高欄は朱色の美しいものであったといわれている。
現在の橋は、橋長39.7m、幅員7.0mの3径間単純合成鈑桁橋で、昭和38年に架けられた。
なんばパークス(NAMBA PARKS)の近くに「難波御蔵・難波新川跡」の碑が建つ。
江戸時代に幕府直轄の天王寺御蔵と難波御蔵の二つが当区にありました。
ことに難波御蔵は享保17年(1732年)飢饉に際して設けられ、幕府直轄の米蔵が置かれたところでした。
東西126m南北324mの敷地に米蔵八棟を有し、災害時の救援米貯蔵の役割を担っていました。
翌、享保18年(1733年)道頓堀の湊町付近から難波御蔵への水運をよくするため堀川を掘ったのが難波新川です。
明治11年(1878年)いたち川と連絡しましたが、昭和33年(1958 年)には埋め立てられ姿を消しました。
浪花100景 難波御蔵
水道汚泥リサイクルレンガ
「市制100周年 平成元年」と書かれたマンホールの蓋。
市の花「パンジー」と市の木「サクラ」がデザインされている。