鳥羽離宮跡とその界隈

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鳥羽離宮(とばりきゅう)は、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。
鳥羽殿(とばどの)・城南離宮(じょうなんりきゅう)とも呼ばれる。
11世紀、院の近臣である藤原季綱が鳥羽の別邸を白河上皇に献上した。

白河上皇は大規模な拡張工事を行った。
後の南殿である。
さらに東殿を建設し、邸内に自らの墓所として三重の塔を中心とした安楽寿院を造営する。

また、治承三年の政変の際に平清盛の命令によって後白河法皇が幽閉されたことでも知られている。

鳥羽離宮跡公園
この遺跡は、白河天皇が退位後に、院政の拠点として、十一世紀の末、応徳三(1086)年に造営されたものを、昭和三八年から四二年にかけ調査し、建物と庭園の跡を確認したものである。

南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿であり、建物跡は公園の南方にある。
なお、公園内の「秋の山」は、当時の庭園の築山にあたる。

安楽寿院(あんらくじゅいん)は、京都市伏見区竹田にある真言宗智山派の寺院。
本尊は阿弥陀如来。
山号はなし。

京都の南に位置した鳥羽離宮の東殿に鳥羽上皇が造営した仏堂を起源とする皇室ゆかりの寺院である。
境内に接して鳥羽天皇と近衛天皇の陵がある。

白河法皇・鳥羽法皇院政地
白河法皇(1053~1129)は,応徳3(1086)年譲位後院政を始め,鳥羽に院御所を造営した。
この御所は,鳥羽離宮・鳥羽殿・城南離宮とも呼ばれ,現在の南区上鳥羽,伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯にあたり,全域180町に及ぶ広大なものであった。

白河法皇没後,鳥羽法皇(1103~56)も28年間に及ぶ院政をこの地で行った。
この石標は,白河法皇・鳥羽法皇院政の地鳥羽離宮の跡を示すものである。

白河天皇 成菩提院陵(しらかわてんのう じょうぼだいいんのみささぎ)
幼い時は父子ともに冷遇されたが、治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け貞仁親王となる。
位を子の堀河天皇に譲ると上皇となり、続くと鳥羽天皇、崇徳天皇と計3代にわたり独裁的な院政をしいた。

歴史的にも院政の創始者とされている。
中宮賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前の間で記録に残っている妻妾は、女御藤原道子・典侍藤原経子程度であり数は必ずしも多くない。

しかし、賢子の死後は身分を問わず非常に多数の女性と関係を持ち、加えて関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、これが崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時から広く信じられる原因ともなった。

冠石
鳥羽上皇が、白河上皇が創建した鳥羽離宮に入ったとき、この石の上に冠を置いて、これを中心に殿舎や仏殿を増築といわれる鳥羽上皇が法皇になられた時に、石の下に冠を納められたといわれる。

鳥羽天皇安楽寿院陵は、鳥羽離宮(鳥羽殿)の東殿に付設された安楽寿院の西にある。
鳥羽天皇は、白河法皇の院政もとで、5歳で即位20歳で、長男の崇徳天皇に譲位。
白河法皇の死後、大治4年(1129年)より院政を敷く。

白河法皇に疎んじられていた藤原忠実を呼び戻して娘の泰子(高陽院)を入内させるなど、院の要職を自己の側近で固める。
さらに白河法皇の後ろ盾を失った中宮璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛して、所生の皇子体仁親王(近衛天皇)を即位させた。
崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の三代28年に渡り実権を掌握。

康治元年(1142年)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となった。
53歳で、安楽寿院で崩御され、自ら陵所と定められ建立していた本御塔に葬られる

近衞天皇安楽寿院南陵
生母の得子が鳥羽上皇の寵愛を受けていたため、わずか2歳で崇徳天皇に代わって即位した。
治世中は鳥羽上皇が院政を敷いた。
だが、病気がちで15歳の時には一時失明の危機に陥り、退位の意思を藤原忠通に告げたという(『台記』仁平3年9月23日条)。

17歳で若死したため子は無く、鳥羽法皇が崩御すると皇位を巡って朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が起こる。
ちなみに、彼の死は藤原頼長の呪詛によるものという噂が流れたという。

鳥羽離宮田中殿跡
白河法皇(1053~1129)が応徳3(1086)年譲位と同時に、鳥羽に造営した院御所を鳥羽離宮といい、全域180町に及ぶ広大なものであった。

白河院没後、鳥羽法皇(1103~56)も引き続き28年間院政を行ったが、その時建てられたのが田中殿(御所)であった。
田中殿は皇女八条院(1136~1211)の御所として法皇が造り、殿内には御堂(金剛心院・阿弥陀堂等)が附属していた。

北向山不動院
山号は北向山。
開山興教大師。
本尊は重要文化財で康助作の不動明王。

1130年(大治5)、興教大師が鳥羽天皇の病気平癒を祈願した際に不動明王が出現、回復した天皇の勅命により、興教大師が開山した勅願寺で、王城鎮護のため不動明王像は北に向けられていることから、「北向山」の名が起った。

久寿2年(1155)に播磨国大国の庄を 寺領として、藤原忠実が中興にあたり,のち応仁の兵火などしばしば災害にあったが、朝廷の保護厚く近世に復興した。
現在の本堂は正徳2年(1712)に東山天皇の旧殿を移築したもの。

鳥羽離宮跡へのアクセス、行き方歩き方

京都市営地下鉄烏丸線竹田駅から徒歩約25分

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