長楽寺は平家物語ゆかりの寺として有名で、以前にも紹介した。
今回新緑の長楽寺を訪れた。
この寺は頼山陽等の文人、水戸藩の尊攘烈士の墓が多くあることでも知られる。
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円山公園から山を上がっていくと緑に包まれた幽玄の世界へさまよいこむ。
長い参道にはアジサイも咲いている。
長楽寺は山の中にあり、とにかく階段が多い。
建礼門院の坐像。
相阿弥作の園池
この庭は室町時代、相阿弥が足利八代将軍義政の命により銀閣寺の庭を作る時、試作的に作ったと伝えられ、苑内に東山(長楽寺山と言う)をとりいれ山腹より湧き出づる滝の水を落として苑池となし「築山庭造伝」(享保二十年1735)にも「相阿弥作」として「庭の景すぐれて自然の趣のあるすがた」とたたえられています。
庭に出て池の向こう側に回り込み、拝観所を眺める。
深い緑に囲まれ静かなたたずまいだ。
浄瑠璃の竹本綱太夫の塚。
書家・武元登々庵の碑
備前市吉永町出身で書家であり文人でもあった、登々庵(1767~1818)、閑谷学校教授で農民学者の武元君立(1770~1820)兄弟ともに閑谷学校に学び「神童」と、もてはやされた秀才でした。
浦上春琴の碑
姓は紀、名は選、字を十千といい、春琴は号です。別に睡菴の号も持ち、戦国大名浦上氏の末裔であることから“浦上春琴”と名乗ったようです。
春琴は鴨方藩士浦上玉堂の長子として岡山県(備前) に生まれ、幼少の頃より父の玉堂から琴や書画の手ほどきを受けました。
墓は長い階段をさらに5分ばかり登ったところにあります。
この墓所には幕末の動乱期に最後の将軍となる、徳川慶喜の母体である水戸藩の尊攘烈士のお墓もある。
頼三樹三郎の墓。
京都三本木にうまれる。
父だけでなく、1840年からは大坂の儒学者・後藤松陰や篠崎小竹らに学んだ。1843年からは江戸で儒学を学んだが、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の石灯籠を破壊するという事件を起こして退学処分とされた。
このとき、彼はすでに尊皇運動に感化されており、幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動であると言われている。
1853年にペリーが来航して一気に政情不安や尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始め、1858年には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜(一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされて安政の大獄で捕らえられて江戸の福山藩邸において幽閉される。
福山藩主の侍講・石川和助は、父・頼山陽の愛弟子であり、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行った。
だが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸小塚原刑場で斬首された。
夫人は山陽に貞節をつくしたことは有名で墓石にも貞節君小后氏墓と刻まれた。
頼山陽の墓
幕末の尊皇攘夷派の志士達にとっては、頼山陽の『日本外史』が唯一とも言える歴史書で、多くの志士達の愛読書ともなっていたとの事。
歴史に名を残す維新三傑や坂本龍馬、中岡慎太郎らも読んでいたとされています。
頼山陽と交友が深かった藤井竹外の墓も傍にあった。
墓碑に竹外酔士之墓と酒が好きだった竹外らしく刻まれている。
山田翠雨の墓
1815‐1875
江戸時代後期の儒者。
文化12年生まれ。後藤松陰、摩島松南に師事し、漢詩を梁川星巌にまなぶ。
京都に塾をひらき、慶応のころ美濃八幡藩にまねかれ、藩校文武館でおしえた。
明治8年8月5日死去。61歳。
摂津八部郡出身。
名は信義。字は義卿。別号に鷯巣。
詩集に「翠雨軒詩話」「丹生樵歌」など。
水戸藩士。
のちに幕臣。
勘定奉行・原十左衛門の子。
諱は忠敬、忠成。幼名は子熊、五軒。
幼い頃から従兄弟であった藤田東湖に学び、のちには昌平黌 ( 昌平坂学問所 ) にも学ぶ。
安政三年、水戸で青莪 ( せいが ) 塾を開き、大いに振う。
徳川慶喜の側近として慶喜の信任あつく、用人・平岡四郎暗殺後は一だんとその傾向が強まり、幕政のすべてに深くかかわった。
慶応二年、慶喜が将軍就任。
目付に任ぜられる。
薩長や諸藩志士の反対を押しきり兵庫開港にふみきり非難を一身に受け、幕臣によって暗殺される。
慶喜はその死を深くいたみ、長楽寺に丁重に葬った。
三十八歳没。
大場一真斎の墓
文政12年、藩主斉脩の継嗣問題に斉昭を擁立し、下士、軽輩出身者の多いなかにあって目立つ存在でした。
弘化元年以降、幕府によって斉昭が処分を受け解除される度に、同じように免職処分と復職を繰り返しました。
文久2年執政に復帰、翌年藩主慶篤に従い藩兵を率いて上京、本圀寺に入りました。
本圀寺党の首領として一橋慶喜のうしろ立てとなり、在京の志士と交わりました。
元治元年主膳正となり、武田耕雲斎の西征軍討伐軍の監察として出陣しました。
明治元年、本圀寺党が帰国して諸生党の撃滅を目ざしたとき、病と称して京都にとどまりました。
明治4年正月病没、69歳。
徳川昭訓(あきくに)公の墓。
幕末徳川幕府の政局を揺るがせた水戸藩第九代藩主斉昭の十四子。
水戸藩の役職者として活躍するも16で病死。
少年貴公子を惜しむ声が水戸藩に流れたという。
長楽寺へのアクセス、行き方歩き方
住所:〒605-0071 京都市東山区円山町626
電話:075-561-0589
京阪電車京都線「祇園四条」駅から八坂神社を目標に円山公園を抜けて徒歩約20分
阪急電車京都線「河原町」駅から四条通を東へ八坂神社から円山公園を経て徒歩約23分