和銅3年(710)、吉城川の上流、春日山のふもと(現在の月日の磐)に、氷室すなわち氷の貯蔵所を設けて神を祭ったことに由来する伝統行事。
全国の製氷販売業者・氷売り業者が参列、祭典が行われる。
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氷室神社の祭神は、中央に主神の闘鶏稲置大山主命(つげいなぎおおやまぬしのみこと)を祀っています。
この神は闘鶏国造の祭神で、闘鶏一族は氷の貯蔵法を発明し、冷蔵の道を案出したといわれています。
本殿は三間社流造・桧皮葺の江戸期の造営で、県指定文化財となっています。
祭日には、本殿玉垣前の芝生の左右に「献氷」の文字を刺繍した大錦旗が立てられて、祭典は午前11時より始められます。
奉納されている氷は「純氷」と呼ばれるもので、良質の水を長時間で凍らせたもので、融けにくいそうです。
純氷とは良質な水を48時間以上かけてエアレーションを行いながら凍らせた透明で堅い氷のことをいいます。
家庭の冷蔵庫や全自動製氷機と比べて、溶けにくい特徴をもちます。
家庭用冷蔵庫で作った氷が白くなるのは、立方体の6面の表面が同時に凍り始めるため、水に含まれる空気が氷の中に閉じ込められるためです。
製氷工場では、立方体の5面から氷の結晶を成長させていくため、氷の中に空気が閉じ込められることがなく、透明になります。
この時期藤が花をつけ彩りを添えています。
全国の製氷会社から献上の御所車。
この席に宮司以下が着座し、祭典が行われる。
式典は午前11時に始まった。
参道両側には氷柱、神前には昇り龍の大きな彫刻。
2011年まではタイやコイを封じ込めた氷柱が奉納されていたが、職人の引退で龍の彫刻に替わったという。
神官による修祓で式典が開始される。
「献饌」
神様にお食事を供えます。
通常2,3人の神職の方によって受け渡されて供えられますが、このお祭では氷業界の代表の方々が出てきて、大人数で受け渡してゆきます。
「奉幣の儀」
これも業界の代表者が、大きな御幣をお供えしてゆきます。
参列の方々が、まだ玉串を添え終わらないうちに神主舞「納曽利(なそり)」が始まりました。
わが国での氷室の発祥の地は現在の天理市福住町で、都祁(つげ)氷室とも称されています。
仁徳記62年(374)以来、毎年朝廷に献上されていて、允恭天皇3年(414)にここ福住に氷室神社を祀り、のち元明天皇が春日御蓋に分霊し祀ったと、東大寺の元要記に記されています。
福住には当時の氷室池らしき痕跡が残されています。
現在では、「日本書紀」仁徳記に書かれている規模の氷室が、長屋王邸跡から出土した木簡などにより、山麓に復元氷室として作られています。
また、この地の氷室神社では7月1日に夏祭り、10月15日に秋祭りが開催されています。
冬の間に氷室に埋めておき、夏になって一塊ずつ大勢の人によって都へ運び出すというのは大仕事であり、古代には氷は大変高価なものだったにちがいない。
そのため、庶民にとっては氷酒を飲むことはまさに高嶺の花のようなだったと思われがちである。
しかし、最近では、氷室が全国にあり、貴族だけでなく庶民も氷を利用する習慣があったことがわかってきた。
例えば『正倉院文書』から、平城京の東西の市で氷を売る店があり、主水司に納められる氷が配給されなかた役所は、民間の製氷業者から氷を買い入れていたことがわかっている。
清少納言は『枕草子』の中で、「あてなるもの」(上品なもの)には「金椀にいれてあまづら(甘葛)をかけて食べる」というかき氷のシロップかけを思わせるものを挙げている。
紫式部の『源氏物語』にも氷に関する記述があり、氷を上品で美しいもののひとつに挙げ、当時の人々が夏に涼を楽しむ風流なものとして描かれている。
当日は、かち割り氷り水やかき氷が無料接待されます。
本殿東側には末社として、南都舞楽の楽祖となる狛光高公を祀った舞光社がある。
仁徳天皇歌碑
高き屋に
のぼりて見れば
煙立つ
民の竃は
にぎはひにけり
氷室神社には献氷の典礼を開いたとされる大鷦鷯命(おおささぎのみこと)すなわち仁徳天皇と、その異母弟で貯氷の術を奏上したとされる額田大中彦命(ぬかたのおおかなつひこのみこと)が配祀されている。
何のことはない、『日本書紀』仁徳天皇62年の氷室起源説話の登場人物がそれぞれ神として祀られているわけである。
平安時代まで盛んだった蔵氷と賜氷の制度はその後衰退した。
しかし、江戸時代には毎年6月、富士山の氷を将軍に献上するという形で復活した。
ふもとの氷室に貯蔵されていた約1m角の氷が、江戸城に着くと溶けて数cm角になっていたとのことだ。
幕末の横浜には大量仕入れの氷屋が登場した。
明治3年(1870)には、日本で最初の人工氷が生まれ、明治16年(1883)には製氷会社も設立された。
国際奈良学セミナーハウスでは「盆藤展」が開催されていた。
向かいの奈良公園では鹿が草を食むのどかな風景が見られます。
春日東西塔跡
春日大社一の鳥居を入った北側にあたる、東西に並んだ二基の塔跡で、現在その礎石が廻廊や門の部分を含め博物館なら仏像館の南側に残っています。
西塔は永久4年(1116)に関白の藤原忠実(ふじわらのただざね)によって、東塔は保延6年(1140)に鳥羽上皇(とばじょうこう)の本願によって建立され、西塔は「殿下の御塔」、東塔は「院の御塔」と称されていました。
治承4年(1180)、平重衡(たいらのしげひら)による南都焼き討ちにあって焼失し、その後再建されましたが、応永18年(1411)に落雷によって焼失し、その後は再建されずに今日に及んでいます。
東西両塔の規模はともに興福寺五重塔とほぼ同じで、初層の一辺は約8.6メートル、高さ約50メートルだったと推測されています。
また、両塔の南正面には複廊、中央には楼門を設け、東・西・北の三方には一辺約70から80メートルの築地(塀)を巡らしていました。
往時の偉容は、絵画の春日宮曼荼羅(かすがみやまんだら)などに見ることができます。
マンホールのデザインは「奈良公園の鹿」と「市章」を中央に配置し、周囲には、平安朝の女流歌人伊勢大輔歌「いにしえの奈良の都の八重桜けふここのへに匂いぬるかな」(歌詩集)によって知られる「八重桜」を図案化しています。
氷室神社へのアクセス、行き方歩き方
住所:奈良市春日野町1-4
電話:0742-23-7297
近鉄奈良駅から徒歩10分から15分